今回から全22回にわたり、山陽鉄道のホイシ9180から「カシオペア」用のマシE26に至るまでの、食堂車110年の歴史をフィーチャーする連載記事をアップして参りますので、よろしくお付き合いのほどをm(__)m


記念すべき第1回のブログナンバーは999で、次でいよいよ1000となります。999といえば「銀河鉄道」のアニメというわけではないのですが、管理人の印象に残ったシーンを取り上げましょう。

銀河超特急999号に乗った主人公の少年は、同行する謎の美女に食堂車へといざなわれます。しかし、彼は食堂車の雰囲気に尻込みしてしまい「僕はこんなところで食事をしたことがない…」と言ってうつむいてしまいます。この999号がなぜSL牽引の客車列車の姿をしているのかについて、作者の松本零士氏が地元から上京する際に乗った列車がモチーフになっているといわれていますが、当時は昭和30年代の前半ですから、戦前ほどではないにしても食堂車が高級品という意識が利用者にあった時代です。この主人公の心理描写も、そのような意識が反映されているのでしょう。あるいは、作者御本人の食堂車に対する憧れのようなものもあるかもしれません。


前置きが長くなりました。


我が日本で初めて「食堂車」というものが世に出たのは、明治32(1899)年の山陽鉄道であるといわれています。
そもそも「食堂車」という場合、その定義が問題となります。というのは、英米のプルマン型車両のように、車両に厨房スペースを備えていても独立した食事スペースを持たない場合もあるからです(従って料理は各座席にサーヴされることになる)。ここでは、一般にイメージされている「食堂車像」に従い、以下の要件を満たすものを本連載における「食堂車」と定義することにします。


1 車両に食事スペース・厨房スペースを備えていること。
2 食事スペースは他の車両の乗客が利用できるフリースペースであること。
 (対象が一部の等級の乗客に限られても、その等級の乗客が等しく利用できればよい)
3 全室型か合造型かは問わない。
4 簡易型食堂車(ビュッフェ車)を含むが、車号「シ」を持つ車両のみを対象とする。
(よって近鉄スナックカーのスナックコーナー、小田急ロマンスカーのサービスコーナー、「ゆふいんの森」・東武DRC・スペーシアのビュフェ及び「スーパービュー踊り子」のサロンコーナーなどは対象外とする)


上記の山陽鉄道の食堂車は、1等客室との合造型ではあったものの、独立した食事スペースと厨房スペースを備えていますので、上記の意味における「食堂車」に該当するものです。

この車両は、山陽鉄道の1227 ~1229号の3両であり、国有後のホイシ9180形と考えられています。当連載のタイトルを「ホイシ9180からマシE26まで」としているのは、このような史実に基づいてのことです。


その後、食堂車は官営鉄道(国鉄)では明治34(1901)年12月に、日本鉄道(現JR東北線など)では明治36(1903)年に導入されていますが、そもそもなぜ食堂車の第一号が山陽鉄道だったのか。

その理由は、当時の山陽鉄道が瀬戸内海航路との熾烈な競争に晒されていたからだといわれています。航路は当時既にかなりの装備を備えていたと思われますが、その航路と競争するために食堂車を連結して、温かい食事を提供しようということだったのでしょう。当時の旅の食事といえば駅弁くらいしかなく、それもまだ黎明期でしたから、列車に乗っていながらにして温かい食事を食べることができるというのは、かなりのサービスだったに違いありません。


ただし、当時は1・2・3等の3等級制をとっており、食堂車は1・2等という上級クラスの乗客に対する限定的なサービスとして考えられていました。つまり、このときの食堂車は、1・2等の乗客であれば誰でも利用できましたが、3等旅客だけは利用できませんでした。現在では考えられないことですが、これは、無札客が居座って本当に食事をしたいお客が締め出されることへの対策、あるいは3等車の座席よりも居心地のいい食堂スペースに長居するお客が出ることの防止が理由ですが、最大の理由は、当時の3等客には礼儀作法のなっていない者が多く、そのような者が食堂車に出入りすると雰囲気を損なう(上級旅客の迷惑になる)ことでした。このような対策は、官営鉄道や日本鉄道でも同様だったようです。


その後、明治36(1903)年10月から、山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったのですが、その条件が振るっていました。


・3等車から1・2等車を通って食堂車へ来るのは禁止。
・身なりを整えること。


これはつまり、「3等旅客で食堂車を利用したい人は、駅での停車時に車両外を移動すること」を求めた、ということです。当時の3等客に、そこまでして食堂車を利用しようとした人はいたのでしょうか? 管理人の素朴な疑問ですが。


鉄道院(国鉄)でも、大正8(1919)年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放しています。

このようにして、食堂車も各等の乗客に開放されるようになりましたが、優等旅客と3等客を分ける施策は続けられ、列車の編成でも、食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分け、3等旅客が優等車を通り抜けないように配慮されていました。このような列車編成上の配慮は戦後まで続き、東京-九州間のブルートレインの編成は、国鉄末期までA寝台車が編成の端に連結されていました。これは、他の旅客の通り抜けのない位置に優等車を置くもので、まさにこのような列車編成上の配慮です。


当時の食堂車は、優等旅客のためのサービス設備だったためか、洋食のフルコースを提供することがデフォルトとなっており、戦後、それも昭和40年代に至って外食産業が隆盛をみるまで、地上のレストランに比べても遜色がないか、むしろ上回るレベルの料理を提供していたといわれています。

しかし、当時の日本人には洋食、しかもフルコースには馴染みがありませんでした。現在でこそカレーライスやハンバーグステーキなどは一般的なメニューですが、このような洋食メニューが家庭料理レベルで食べられるようになるのは戦後、昭和30年代後半のことですので、多くの日本人旅客にとっては「敷居の高い」高級レストランでした。


その後、食堂車は爆発的に普及するのですが、今度は日本人の嗜好に合った形で世に出ることになります。


その2(№1005.)へ続く