その5(№940.)から続く


昭和39(1964)年10月に東海道新幹線が開業してからというもの、名阪間の主役は完全に新幹線になってしまいました。もちろん、名古屋・京都発着の特急列車は新幹線からの乗り換え客を受けることで大盛況となり、企業としての近鉄は大いに利益を上げたのですが、それまでのフラッグシップだった「名阪ノンストップ特急」の落ち込みは、目を覆わんばかりのものがありました。近鉄が満を持して投入した「新ビスタカー」10100系でも空席が目立つようになってしまいます。


近鉄だってそのような状況を拱手傍観していたわけではありません。近鉄は、新幹線開業から3年を経た昭和42(1967)年、新たなコンセプトに基づく特急車を世に送り出しました。


その「新たな特急車」とは、「スナックコーナー」という供食設備を備えて飲食サービスを充実させる一方、乗客の多寡に応じて増解結を容易にできるように2両単位の編成とされたもので、形式は12000系とされました。この12000系は、M車に大出力モーターを搭載してMT比1:1の編成を構成しつつも、青山峠の急勾配区間を走行可能なスペックを持たせたものですが、当時車両限界や架線電圧が違っていた京都線や橿原線などには対応しておらず、大阪線規格の大柄な車体で現れました。
ちなみに、18200系から始まった特急車の「MT比率1:1の法則」は、昭和63(1988)年に「アーバンライナー」こと21000系がデビューするまで、歴代近鉄特急車の不文律(?)として維持されています。現在でも最新鋭の「ニューACE」22600系など、特殊用途ではない汎用特急車は、依然としてMT比率が1:1ですので、その限りではこの法則が現在でも生きていると言ってよいようです。


12000系の最大の目玉である「スナックコーナー」は、大阪寄り(M車)の運転台直後に置かれ、そこでカレーライスやサンドイッチ、中華ランチなどを調理(あるいは地上で調理したものを加温?)して乗客に供していました。これは、食堂車やビュッフェのような大がかりな供食設備でなくとも、飲食サービスを充実させることで、新幹線に流れた乗客を奪還することを意図したものでした。この「スナックコーナー」、管理人はリアルでは一度も見たことがないのですが、イメージとしてはかつて新幹線300系や500系などにあった「サービスコーナー」に近いものがあったと思われます。また、カレーライスなどは乗客の座席まで提供されましたから、これらの食事メニューは飛行機の機内食に近いイメージだったと思われます。

この車両は「スナックコーナー」を有することから「スナックカー」とあだ名され、昭和42(1967)年にMcTcの2連×5本が製造され、「名阪ノンストップ特急」に投入されました。

この車両が改良されたのは供食設備だけではなく、それまでリクライニングしなかった座席がリクライニングするようになった(簡易リクライニングシートの採用)ということも挙げられます。当時は2等車(→普通車)の座席が転換クロスシートだった新幹線に比べ、快適さの点で一日の長をもつようになります。

ただし客席と出入台を仕切る壁はなく、他社の有料特急車両のようなデッキはありませんでした。このため、上記「スナックコーナー」も客席から丸見えの状態だったそうです。ということは、食事時を走る列車ともなれば、そのスナックコーナーからカレーや中華料理の匂いが漂ってきていたのでしょうかね。


この12000系の特急は好評を博したのか、その後の難波開業や賢島への特急の延長運転、大阪万博を控えた昭和44(1969)年、12000系の改良バージョン・12200系が登場します。この車両は、12000系にあった「スナックコーナー」を拡大するなどの改良がなされています。12200系はこのような状況下大量に増備されることになり、結局昭和51(1976)年までに、中間車を含め実に166両が増備されています。

また、それとは別に、「新ビスタカー」10100系の一部にも「スナックコーナー」を設けた編成が現れたり、京都・樫原線へ直通できる(現在は両線について入線車両の制約はない)18400系にもスナックコーナーが設けられたりなど(このため、18400系を『ミニスナックカー』と呼称することがある)、「スナックカー」で始まった飲食サービスは拡大されていきました。この「スナックコーナー」、自社の系列だった名古屋都ホテル(現在は廃業、ホテルは現存するが別の屋号になっている)が担当していましたので、「みやこコーナー」というあだ名も付けられています。


しかしやはり、「食い物で客を釣る」(→あけすけな言い方をすれば)ことはできなかったようで、12200系に設けられたスナックコーナーも、第20編成まで設置されたものの、それ以後に増備された編成は設置されなくなりました。これによって、該当車両の定員は8名増えましたが、12200系の「スナックカー」という愛称は維持されたため、「スナックコーナーを持たないスナックカー」という、「名が体を表さない」状況になってしまいました。その後、昭和52(1977)年ころから、スナックコーナーの撤去が開始され、12000系や12200系も該当車両はすべて客室に改造されてしまい、ここに一時代を築いた「スナックカー」の歴史は、事実上閉じられることになりました。


ところで、昭和45(1970)年は、近鉄にとって大きな飛躍の年でした。
まず上本町-難波間が開業し、近鉄特急が大阪の「ミナミ」の中心にダイレクトに達しました。また志摩線の改良が成り、大阪や名古屋から特急が志摩半島の賢島まで到達します。それまで近鉄は、伊勢志摩への観光輸送でも国鉄としのぎを削ってきましたが、賢島へ到達することで国鉄に完全勝利することができ、近鉄特急の名声を不動のものにすることとなりました。また、この年大阪・千里丘陵で開催された大阪万博も多くの見物客を集め、その輸送にももちろん近鉄特急が大いに貢献します。ことによると、万博を見たついでに奈良や伊勢志摩に行ってみよう、という人もいたかもしれませんが、もしそういう人がいたとすれば、近鉄特急はこういったお客も取り込むことができたことになります。

しかし、肝心の「名阪ノンストップ特急」の方は、「スナックカー」投入というテコ入れを図ったにもかかわらず、乗客の減少は止まりませんでした。使用車両も、それまで10100系や12000系列が使用されていたものが、18000系列などが使用されるようになります(何回か実績あり)。近鉄の内部では、1両ぽっちの「単行運転」も真剣に検討され始めます。


このように窮地に立たされた「名阪ノンストップ特急」ですが、実は昭和51(1976)年前後から、ある「神風」に助けられることになります。


その7(№956.)へ続く