ブログナンバー800は旅行中に使ってしまいましたが、当ブログもやっとこさ記事が800を数えるようになりました。これもひとえに、当ブログを御贔屓にして下さる皆様のお陰です。この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m
そこで、800を記念して、旅行中の記事のコンプリート版をアップする前に何か記事を…と思いましたが、前回の700のときのように車両としての800形(系)を取り上げるのであれば、新幹線「つばめ」の800系や新京成800形などがあります。しかし、そのどれもがピンとこなかったので、車両ネタは止めました。
むしろ、「800」で印象深いのは、中央線などの狭小トンネルに対応するためにパンタグラフの取付部分を低屋根にした「800番代」でしょう。そこで、今回の800の記念記事は、低屋根パンタ車・800番代の系譜を取り上げることにいたします。なお、当記事では中央本線(東京-名古屋間)全体を指すときは「中央線」とし、塩尻を境に東京寄りは「中央東線」、名古屋寄りは「中央西線」という呼称を使用します。
このような車両が生まれた背景には、①戦後強力に推進された電化と、②ある私鉄買収路線の存在があります。
まず①の点ですが、ある路線を電化するには、当然ですが車両の大きさに見合った架線の高さを確保する必要があります。それによって線路の上に置かれる構造物、具体的にはトンネルとか跨線橋などの高さが決まってきます。
トンネルや跨線橋の高さは、非電化路線なら建築限界プラスアルファで足りるので低くすみます。ところが電化するとなると、架線を張る必要から跨線橋を架け替えたり、トンネルを掘り下げ・掘り直したりする必要が出てきます。
過去の電化路線は、トンネルの掘り下げや掘り直しで対応してきましたが、中央線のような山岳路線ではトンネルの数が多く、全てのトンネルについてそのような工事をしていては、時間も費用もかかりすぎ、現実的ではありません。
そこで、トンネルはそのままにして、車両の方で対応することになりました。当時は折り畳み高さの低いパンタグラフはなかったので、普通の屋根高さの車両に普通のパンタグラフを搭載すると、トンネルの中で架線とパンタグラフとの絶縁(電気の流れの遮断)に必要な距離を確保できなくなってしまうのです。そのため、車両のパンタグラフの取付部分を低くして、絶縁に必要な距離を確保しています。それが中央東線に投入されたモハ71形であったり、モハ72の低屋根車だったりしたのですが、新性能電車では101系の800番代車が最初です。
その後、115系や165系に800番代車が登場し、鉄道愛好家の間には「800番代=中央線狭小トンネル対応車」という共通認識が出来上がっていきました。
ただし、その後に「あずさ」で中央東線に入線した181系や「しなの」用の381系といった特急用車両は、もともと車体の高さが一般車より低く抑えられていましたので、115系や165系のような低屋根構造にはなりませんでした。しかし、181系の運転台上部のヘッドライトはさすがに取り外さざるを得なかったようで、これがなくなったことで頭がのっぺりとしてしまい、特急用車両の威厳がなくなってしまった印象がありました。
ところで、この800番代車は、通常の屋根構造の車両がある場合に区別するための番代だったようで、全車が低屋根構造だった155・159系や167系(パンタグラフの取付部分のみ)などは、800番代の区分がなされていません。
もうひとつの②の要因は、開業当時は「富士身延鉄道」という私鉄だった身延線です。こちらは開業当初からの電化路線ですが、もともとの国鉄の路線と比べて車両限界が小さく、国有化後に国鉄形車両を投入するときには、やはり狭小トンネルの問題が生じました。そのため、元横須賀線用のクモハ14(←モハ32)などを投入するにあたっては、パンタグラフを搭載した車両の屋根を全体にわたって低くし、絶縁に必要な距離を確保しています。しかし、この「全体の低屋根化工事」はさすがに無駄だということになったらしく、その後42系や51系を転用するときには、パンタグラフの取付部分だけを低屋根化する改造になりました。これら改造車は、全体を低屋根化したものとパンタグラフの取付部分だけを低屋根化したものとを問わず、全て800番代が付されています。
余談ですが、身延線は一時期、第三軌条方式への電化方式の転換が大真面目に議論されていたことがあります。これはいうまでもなく、狭小トンネルへの対策ですが、他の国鉄の路線と規格が異なってしまうことや、沿線の感電対策の必要などから、計画は頓挫してしまいます。歴史に「if」は禁物ですが、もし身延線や中央線が第三軌条方式で電化されたら、一体どうなっていたでしょうね。特急「あずさ」用車両が第三軌条方式でデビューしていたかもしれない!?
このように、新造車・改造車を問わず、狭小トンネル対応車は800番代を付されてきましたが、昭和50(1975)年ころまでには、通常の屋根高さの車両に搭載しても狭小トンネルにおける絶縁距離を確保できる、折り畳み高さの低いパンタグラフが開発され、搭載されるようになりました。このパンタグラフの開発によって、車両の屋根を削るという改造が不要になり、劇的なコストダウンが実現しています。この画期的なパンタグラフ・PS23形は115系の増備車などに搭載され、800番代化されることなく中央線に新製投入されたり、あるいはパンタグラフを換装されて転入したりしました。これらの車両は、番代区分も改番もなされないものの、一般の車両と区別するため、車号の頭に「◇」マークをつけています。
しかし、昭和56(1981)年に身延線に115系を投入したときは、このPS23形を搭載してもなお絶縁距離を確保できなかったようで、さらに屋根高さを低くした構造としています(モハ114-2600)。JR化後に投入された313系や373系はそのようなことはないようですから、パンタグラフの折り畳み高さも劇的に低くなったのかもしれません。
このPS23形の開発により、低屋根車は新造車・改造車とも新たに登場しなくなり、「800番代」はこれ以上増加しなくなりました(※)。しかし、その後の昭和61(1986)年に至り、福知山線電化用に用意された113系の耐寒・耐雪改造車に800番代を付番したことにより、「狭小トンネル対応車」を意味する区分番代としての800番代は意味をなさなくなってしまいました。
その後、中央東線を管轄するJR東日本はE231系やE233系を全車狭小トンネル対応可能とし、中央西線を管轄するJR東海も、やはり313系などを全車狭小トンネル対応としています。
※余談…103系はパンタグラフ搭載車のモハ103が-793まで製造されましたが、もしこの形式が800両を超えたら、-799の次は-2001になっていたのでしょうか?
結局、800番代という低屋根車は、鉄道の進化の一過程に現れた形態であり、いずれ消えることが運命づけられていた車両なのでしょう。現車はほとんどが姿を消してしまいましたが、国鉄の幹線電化の進展の一過程でこのような車両が現れたという歴史的事実は、記憶しておきたいと思います。