その6(№684.)から続く


前回も触れた昭和55(1980)年の東急及び東横線の動きですが、新玉川線からの「出戻り」の他に、大きな話題をさらったのは、初の量産型軽量ステンレスカー・8090系でした。


この車両は、現車の登場が昭和55年の11月ころと記憶していますが、その前の6月ころには新車投入をアピールするポスターが駅に貼られました。
管理人もそのポスターを見ましたが、驚嘆しました。それまで銀色一色だった車体に、前面はもちろん側面にも帯が入っているのですから。しかも、前面は優しげな3面折妻に大きな全面窓を配し、いかにも前面展望がよさそうな開放的な姿でした。
それよりも、当時の管理人が狂喜したのは、前面・側面の方向幕が装備されたことです。既に8500系のところで触れていますが、8500系が東横線に来ても、前面に行先を表示するだけで側面に表示しなかったものですから、そのことが管理人には不満だったのです。それが、前面は8500系のそれよりも大きくて見やすい方向幕が、向かって左から順に種別・行先・運行番号と並んでいるのです。これがかっこよく見えたのですね。
余談ですが、当時のポスターで覚えているのは、前面の方向幕の表示が「急行」「渋谷」となっていて、運行番号がどういうわけか「80B」となっていたことです。当時の東横線車両の運用は、各駅停車、急行、日比谷線直通で全て分けられていて、急行の運行番号は51~60(日中は51~56)だったのですが、それがアルファベット付きで表示されたことが驚きでした。それで強烈な印象があって、覚えているのだと思います。
それにしても、この運行番号にはどんな意味があったのでしょう…? もちろん、今にして思えば、運行番号の「80」はその年の西暦(1980年)を意味するものだと分かりますが、「B」はどういう意味があったのでしょうか…? それが現在に至るまでの謎です。


そんなわけで、現車の登場が待ち遠しかったのですが、遂に11月、現車が登場しました。編成は、


←渋谷 8091-8291-8191-8391-8292-8192-8092  桜木町 →


というものでした。それまでの東横線の編成で、20m車の7連は過去に例がなかったのですが、これは急行に専従させるという意図があったようです。ちなみに、8090系は(その後に登場した8590系も含めて)、平成13(2001)年3月の特急運転開始のダイヤ改正で普通・優等の運用の区別が撤廃されるまで、編成替え時の過渡期や突発的な事態を除いては、各駅停車の運用に供されたことはほとんどありません。前回にも触れましたが、この8090系の登場と同時期に、新玉川線から出戻った8000系の先頭車に新造中間車を挿入するなどして7連を作り、急行運用に投入しています。


管理人が8090系に乗車できる機会は、意外に早く訪れました。ある日の夜、塾の帰りに乗車する機会に恵まれたのです。
そのときの印象は、とにかくかっこいい、その一言に尽きました。特に、車体側面のコルゲーションが激減し、2本の赤帯が巻かれているのに、非常に軽快な印象を持ちました。それでいて、車体裾の絞りは「青ガエル」5000系を彷彿とさせ、前面の優しげな3面折妻は日車製3450形を彷彿とさせるなど、どことなく在来車との「血統」のようなものを感じさせるものがあったことも、当時の鉄道少年は感嘆したものです。
車内も、オリジナル8000系より明るい内装で、素晴らしい車両だと思ったことを、昨日のことのように思い出します。もっともこの日は、8090系が現れるまで渋谷駅で粘っていたものですから、家に帰るのが遅くなってしまい、両親に大目玉を食らってしまいましたが…。現在のように携帯電話もない時代のこと、両親は気が気ではなかったでしょうね。
そんなわけで、8090系の管理人の「ファースト・インプレッション」は非常に良いものでした。


このときは夜でしたので、車窓展望は望むべくもなかったのですが、小学校を卒業するころ、昼間の8090系使用列車に乗ることができました。このときは、喜び勇んで最前部にかじり付いたものです。
驚いたのはその展望の良さで、仕切り壁のガラスの面積をいっぱいに取っているため、無理にかじりつかなくとも混雑していなければ十分に前面が見通せるというものでした。当時から、東急の乗務員には仕切り壁のブラインドを下げるという無粋なことはしませんでしたから、前面展望も乗客へのサービスとばかり、気前よく披露してくれました。現在でも東急の車両は、乗務員室(運転台)の仕切り壁のガラスの面積を広く取っていますが(例外は池上・多摩川線用の新7000系)、これは東急の伝統なんでしょうか。


この魅惑の新車は大好評を博したのか増備が決まり、8091Fの登場から2年後、昭和57(1982)年に2編成(8093F・8095F)が追加投入されました。この2編成が投入されたときには、東横線の急行は20m車8連になっていましたので、7連で登場した8091Fは、しばらく各駅停車に使われました。8091Fが8連化されたのは、その翌年のことでしたので、およそ1年間各駅停車に専従する時期が続いたことになります。


結局、8090系は昭和60(1985)年までに8連が10本、計80両まで増え、東横線の急行運用をほぼ手中にします。
増備の過程で、4本目の8097Fまではよかったのですが、5本目の8099Fは車号がどうなるのか注目されました。クハ8090・デハ8190・デハ8290は、
8X99→…→8X80→8X81→…→8X90
となり、サハ8390・デハ8490は、
8X99→…→8X90
となっていて、付番方法に微妙な違いがあります。

ちなみに、この8090系の増備で割りを食ったのが、軽量ステンレス試作車のデハ8400で、既にデハ8400(2代目)登場に伴いデハ8281・8282と改番されていましたが、8090系編成の増備により、デハ8200形の続番(8254・8255)となってしまったのは、集団に埋没してしまったようで、残念なものがありました。


8090系は、昭和63(1988)年に編成替えをするまで、東横線のスターの座に君臨し続けていました。

8090系登場に並行して、既存の8000系編成も充実が図られますが、それはまた次回に。


その8(№712.)に続く