一般の特急列車とは明らかに違う風貌の車両がホームに滑り込む。列車の中では、楽しそうな宴会が繰り広げられ、どの顔も楽しそうな雰囲気に満ちている…。団体専用列車、とくにいわゆるジョイフルトレインを使った団体列車によく見られる光景です。

「ジョイフルトレイン」という言葉は、誰が言い出したのかは分かりませんが、国鉄末期から言われはじめていたのではないかと思います。その定義は、概ね以下のとおりとされています(Wikipedia による)。


1 車両の定義
主に団体専用列車用に使用される、外観や内装が一般の車両とは大きく異なる車両で編成されたものを指す。
2 内装の特徴
内装としては以下の特徴がある。
畳を敷いた(和式車両)
サロンや宴会のできるコーナーがある。
座席などの配置が内側から窓側を向いていたりするなど特殊な配置を持つ。
3 その他
和式車両やサロン車両の多くはグリーン車扱いとなっている。


この「ジョイフルトレイン」の嚆矢とされるのは、今からちょうど25年前の昭和58(1983)年に登場した「サロンエクスプレス東京」です(以下SETという)。この車両は、後にお座敷車「ゆとり」に改造されましたが、今年惜しまれつつも退役しています。そこで、今回から何回かに分けて、連載記事「ジョイフルトレインの四半世紀」をアップして参りますので、よろしくお付き合い下さいませm(__)m
なお、今回は管理人の本業多忙のため、イレギュラーな更新日となっていますが、今後は原則火曜日更新といたしますので、よろしくお願い申し上げますm(__)m


団体列車用に特別の車両を用意するという発想は、既に昭和30年代半ばからありました。このような発想の先鞭をつけたのが「お座敷列車」ですが、この起源は昭和35(1960)年と古く、当時の盛岡鉄道管理局に、スハシ29形を改造したスハ88形が配属されたのがお座敷列車の始まりということになります。最初はこのスハ88形ともう1両だけでしたが、昭和45(1970)年にはオハ35系の改造で、編成単位(6連)で用意されるようになります。
その2年後の昭和47(1972)年、当時余剰気味になっていた客車のグリーン車・スロ62などを改造したスロ81系が登場し、昭和55(1980)年までに7編成42両が出揃います。
しかし、これらの車両は旧型客車の改造であるため、運転上の取扱いや旅客サービスなどに難があり、国鉄の分割民営化までに、スロ81系は1編成を残して12系又は14系の改造車に置き換えられています。


お座敷車両の人気は依然として高かったのですが、畳敷きの車内はどちらかというと高齢者や年配のお客に最も適した内装であり、若年層には必ずしも受けないのではないかと、国鉄の内部で考えられるようになります。
このような考えに基づき、それまでのお座敷列車とは一線を画した団体用車両が世に出ることになります。これが冒頭に御紹介したSETなのですが、以下のような特徴がありました。


1 新造車を入れることはせず在来車の改造とされたが、それでも当時の特急用車両だった14系客車を種車にした。
2 内装は、畳敷きでもリクライニングシートでもなく、4~6人が利用できる個室とされた。しかも、編成の両端に展望室を設け、さらにその一方にはキッチンを設け飲食物を提供するというもの。
3 外装も、高級感溢れる「赤7号」という色。


この車両の特徴を見ていただくとお分かりいただけるかと思いますが、この車両のアイデアの基礎になっているのは、昭和20年代にあった観光用固定編成列車の構想でしょう。この列車の構想が、その後のブルトレ客車20系に結実したことはあまりにも有名ですが、あちらは実用的な夜行特急列車でしたから、観光用列車の実現という意味では、こちらのSETの方が、この構想を正しい形で生かしているのかもしれません。

そして何より、この車両について特筆すべきは、それまで意識されてこなかった「車窓展望」を鉄道旅行のセールスポイントとして積極的に売り出すスタンスを明確にしたことです。それまでの国鉄では、車窓展望を売りにしていたのは大昔の特急列車の展望車くらいなもので、これは1等車でしたから、限られた乗客のためだけのものでした。国鉄以外でも、明確な形で車窓展望を売りにしていたのは、近鉄のビスタカーや名鉄のパノラマカー、小田急のロマンスカーくらいしかなく、その意味でも画期的なものでした。

この車両は昭和58(1983)年夏に落成し、華々しくデビューを飾りました。この車両の宣伝に一役買っていたのが、この年デビューしたアイドルの伊藤麻衣子さんでした(←現在も御活躍のようですが…)。当時の国鉄としては、このような車両を世に出すことも異例なら、アイドルを起用して宣伝をするというのも、極めて異例なことでした。それだけ、この車両を世に出すのに並々ならぬ気合いが入っていたのでしょう。
ちなみに、この車両の登場当時は「ジョイフルトレイン」という言葉はなく、むしろ「欧風客車」といわれていました。


この車両は、当然のことながら大変な反響をもって迎えられ、それまでのお座敷列車よりも稼働率が高まり、当時の国鉄の増収に相当寄与しています。
この車両の登場後、西の大阪鉄道管理局管内でも、独自の趣向を凝らした「欧風客車」の設計・改造に着手することになります。東のSETと比べ、様々な違いがあるこの車両ですが、次回はこの車両の紹介から入ることといたしましょう。


その2(№586.)へ続く

※ 他の記事との関係上、投稿日を7/17としてあります。