その18(№516.)から続く


ブルトレの、そして夜行列車全体の凋落傾向が明らかになったのは、私は平成5(1993)年だと思います。
この年の3月、東海道・山陽新幹線で「のぞみ」が東京-博多間毎時1本の運転を開始し、同時に東京発着のブルトレの食堂車営業が全廃されています。
これだけでも十分に凋落傾向が伺える現象ですが、この年の12月、JR東日本が自社エリアを中心とするダイヤ改正を行いますが、その概要が明らかになると、鉄道趣味界は騒然としました。なぜなら、


1 ブルトレ「出羽」廃止
2 583系使用の寝台特急「ゆうづる」廃止
3 夜行急行「八甲田」「津軽」廃止


といった具合に、夜行列車に大きな削減の大鉈が振るわれることが明らかになったからです。

1は、上越・羽越線系統にブルトレが2本あったことから、輸送力過剰になっていたものを適正化するものでした。平成2(1990)年の9月から、それまで奥羽線を経由していた「あけぼの」2往復は、1往復が上越・羽越線経由に変更の上「鳥海」と改称し、もう1往復が何と陸羽東線経由に変更した(愛称は変更無し)のですが、「出羽」は「鳥海」と運転区間が重なるため、夜行需要の長期低落傾向の中では、2往復を維持するほどの需要も必要性もなくなっていたのでしょう。2の「ゆうづる」廃止にも同じことがいえます。
それよりもショッキングだったのは、3の夜行急行廃止でした。管理人は当時、これらの列車は高い乗車率を誇っているとばかり思っていたため、廃止の一報には耳を疑ったものです。
しかし、よく考えれば、「八甲田」は機関車牽引で非効率、「津軽」は仙山線経由で(『津軽』は平成2年9月、仙山線経由に変更の上電車化されていた)同線の夜行運転がこの列車だけだったため、効率化の要請に反するものだったのでしょう。
ただ、このとき、JR東日本は「八甲田」を廃止した一方で、「はくつる」を2往復化し、その上で座席車(寝台非設置)を設けるという施策を講じています。これは、割安に乗車できるはずの急行列車をなくしてしまったもので、かつて関西-九州間系統で行われたような急行の特急格上げ・実質的値上げを彷彿とさせるものがありました。ですがこれも、後述のように国鉄時代に行われた特急格上げとは事情が異なると思われます。


本当の意味でブルトレに大鉈が振るわれたのは、翌年の平成6(1994)年12月のことでした。
このときは、新幹線の博多開業以来減らされることがなかった東京発着の九州ブルトレに、遂にリストラのメスが入ります。あわせて、他の系統でも臨時格下げ(実質的な廃止)が行われ、ブルトレの退潮傾向を、鉄道趣味界だけではなく一般社会にまで、これ以上ないほど強烈に印象づけました。
この年の夏ごろ、一般紙に「ブルトレリストラ・みずほさらば」と大々的に見出しを打った記事が載り、ブルトレの削減が報じられました。そのことも、一般社会に与えるインパクトを大きくしているのかもしれません。


1 「みずほ」(東京-熊本)・「あさかぜ」(東京-博多)を廃止。
2 「さくら」用の14系を熊本から長崎へトレード。
3 「つるぎ」(大阪-新潟)を廃止。
4 「はくつる」(上野-青森)を1往復廃止、1往復化の上電車化。


この改正で、ブルトレの退潮傾向が強烈に印象づけられた理由は、何といっても、ブルトレの始祖である東京-博多間の「あさかぜ」が廃止されたことによることが大きいと思います(1)。

この列車は昭和33(1958)年以来、常に他のブルトレをリードし、ブルトレの頂点に立ってきた列車で、最盛期は優等車を7両もつなぐ「殿様あさかぜ」として君臨していました。その後のJR発足直前、徹底的なグレードアップが施されたにもかかわらず、その甲斐もなく廃止の憂き目に遭います。この改正をもって、「殿様あさかぜ」の系譜は完全に潰えたと評して差し支えないのでしょう。

また、他の九州ブルトレに比べて地味な存在だった「みずほ」が、やはり昭和36(1961)年以来の35年間の歴史を閉じています(3)。最初は東京-熊本間の列車として始まり、その後付属編成が大分や長崎へ足を伸ばすに及んで、九州の主要幹線に全て足跡を記すという、極めて特異な経歴をたどった列車でもありましたが、この列車がなくなるというのも、ブルトレの退潮傾向を印象づけています。
なお、この「みずほ」の廃止によって、品川所属の14系寝台車の定期運用がなくなり、「さくら」は長崎で担当することになります(2)。

昭和47(1972)年から22年の歴史を誇った「つるぎ」も、この改正で廃止されました(3)。この列車の運転区間である大阪-新潟間には夜行急行の「きたぐに」があり、電車の3段式とはいえ寝台車を連結していましたから、2往復も夜行は要らないということで廃止されました。

このとき、JR西日本は「きたぐに」を残して「つるぎ」を廃止にしたことで、前年のJR東日本が「はくつる」を残して「八甲田」を廃止したのと真逆なことを行っています。これについて、JR東日本は旧国鉄真っ青の特急誘導だがJR西日本は利用者思いの判断をした…ともいえますが、あるいは、特急か急行かではなく、「客車列車かどうか」という要素が判断の根底にあったのかもしれません。合理化のために、運転上手間のかかる客車列車を優先して減らした…ととれなくもないのです。

そして、その「はくつる」ですが、博多「あさかぜ」の廃止で浮いた24系25形客車を使って客車列車に置き換えられ、1往復化されます(4)。「あさかぜ」から「はくつる」に転用されたのはB寝台車の他は1人用個室A寝台車・オロネ25だけで、食堂車はもちろんのこと、シャワー室付きの車両も転用されず廃車になりました。この置き換えによって、遂に583系が全ての定期寝台特急の運用から撤退することになり、その点でもひとつの時代の終わりを印象づける改正でした。このとき、電車の583系の使用を継続せず、わざわざ「はくつる」を客車に戻したのは、さすがに583系では寝台特急として水準に達するレベルではなくなっていたことが大きいのでしょう。


この衝撃的なダイヤ改正から僅か1か月半後の平成7(1995)年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が発生し、神戸地区の東海道線が寸断されてしまいます。

ではブルトレは迂回運転したのかといえば、僅かに「あかつき」と「なは」が震災の被害に遭った大阪-姫路間を福知山・山陰・播但線を迂回して九州と結んだだけでした。東京発着のブルトレは同年4月に復旧するまで運休とされ、品川の留置線に青い客車が体を横たえていました。
かつては「さくら」が芸備線などを迂回した記録がありますが、このときは軒並み運休とされたことで、ブルトレの存在感の軽さが強烈に印象に残りました。つまり、運休してしまうということは、乗客にも当てにされていないことですし、同時に迂回運転するだけのコストが引き合わないことを裏書きしているととれるからです。それ以外にも、その後のブルトレは台風や降雪などの悪天候でも簡単に運休するようになってしまいます。今にして思えば、簡単に運休してしまうことで、「頼りにならない」という断を下されてしまったのかもしれません。


このように、ブルトレは長期低落傾向の渦中にありましたが、一方ではブルトレ・寝台列車の将来性を信じ、それを世に問う試みがなされるようになります。次回は、そのあたりを取り上げましょう。


その20(№528.)へ続く