その15(№477.)から続く


特急列車のB寝台車の2段化が推進され、かつヘッドマークが全列車に復活するなど、ブルトレにとっては久々に明るい話題満載となった、昭和60(1985)年のダイヤ改正。
しかし、国鉄は分割・民営化の方針が既に決定され、それに従って法整備がなされていきました。
その総仕上げといえるのが、昭和61(1986)年11月のダイヤ改正です。この改正は、国鉄の分割・民営化を前提になされたものであることは有名ですが、ブルトレに関しての改正事項も多岐にわたりました。以下に列挙しましょう。


1 「あかつき」「明星」併結列車を廃止、「明星」の愛称が消滅。
2 関西ブルトレについて、「なは」用車両を鹿児島・熊本へトレード。
3 東京ブルトレについて、「さくら」「みずほ」基本編成を熊本へトレード(※)。付属編成は従前どおり品川持ちのまま。
4 「はやぶさ」「富士」基本編成を鹿児島へ、付属編成を熊本へトレード。同時にA寝台車を付属編成に移し、宮崎・西鹿児島(当時)へは行かないことに。
5 「はやぶさ」「富士」編成を共通化(ロビーカーを『富士』にも連結)。
6 出雲市発着の「出雲」用車両を出雲へトレード。
7 「あかつき」佐世保編成に普通座席車を連結。
8 「銀河」を24系25形に置き換え。
9 「だいせん」「ちくま」を12系+14系に置き換え。
10 「かいもん」「日南」の寝台車を24系25形に置き換え。


※=開運skyliner様の御指摘に鑑み、本文を訂正いたしました。御指摘ありがとうございます。


列車の改廃は「あかつき」「明星」の廃止だけでしたが(1)、この改正の特徴はむしろ、車両基地の見直しなどです。
その見直しが最も広範囲に及んだのは東京ブルトレで、それまで「瀬戸」と下関発着の「あさかぜ」以外が全て品川の所属だったのを、14系編成の基本編成は熊本へ移し(3)、24系25形を使用する「はやぶさ」「富士」は編成丸ごと九州側へ移すなど、大規模な転配が行われました。中でも「はやぶさ」「富士」は、それまで基本編成にあったA寝台車が付属編成に移されるなど、編成面でも大きく変わりました。これらの転配により、従前どおり品川担当となるブルトレは、「さくら」「みずほ」の付属編成と博多発着の「あさかぜ」、浜田発着の「出雲」のみとなっています(3-6)。このように所属を分けたのは、東京-熱海間のみが自社路線となる東日本会社に全列車の受け持ちをさせるのがアンバランスであるといわれていましたが、今にして思えば、実際には廃止しにくくするために所属区所を細分化したのでは…とすら思えます。
このような所属区所の変更は、関西ブルトレの「なは」でも行われています(2)。「なは」まで含めて変更を行ったのは、「なは」「はやぶさ」「富士」の基本編成を同一にするのと、食堂車や優等車を熊本に集約したいという考慮があったようです。


次に、それまで全車寝台がデフォルトだったブルトレに、座席車の連結が行われたのは特筆すべきことでした(7)。それまでも14系編成を一部座席車として運転したことはありましたが、定期列車となると、昭和42(1967)年の「ゆうづる」のナハフ20以来となるものでした。
これは、今にして思えば、当時既に台頭してきていた夜行高速バスへの対抗としての意味があったのでしょう。夜行高速バスは運賃の安さが大きなセールスポイントでしたから、特急料金だけで乗車できる普通座席車は魅力的な選択肢になりうると考えられた結果です。しかし、居住性はあまり芳しくなかった(14系の簡易リクライニングシートは、体重をかけ続けていないと背ずりが戻ってしまう)ことで、乗車率はあまり優秀ではなかったようです。それでも、この試みが後の「レガートシート」実現につながっていきます。


あとは急行の話題ですが、この改正で特筆されるのは、遂に20系の定期運用そのものが消滅してしまったことです(9・10)。既に「銀河」などは前年に置き換えられていましたが、それ以外の「だいせん」「ちくま」「かいもん」「日南」の4系統4往復に残る20系も退役しました。特に、「だいせん」からの退役は、20系固定編成最後の使用列車となっていた列車からの退役として、愛好家からも注目されました。

昭和33(1958)年「あさかぜ」用として生を受けてから、その20年後に「あさかぜ」から退き、22年後に全ての特急から、そして登場から28年のこの年、遂に定期運用が消滅してしまったのです。20系はすぐに廃車になったわけではなく、民営化後のJRに承継されて臨時列車などに使用されますが、それでも一切の定期運用から退いたという事実は、ひとつの時代の終わりを感じさせるに十分なものがありました。今考えれば、20系は国鉄の絶頂期に生を受け、国鉄と共に本来の任務を退いた…言い換えれば「国鉄の終焉と運命を共にした」車両ではなかったでしょうか。


その後、分割・民営化への準備は着々と進められますが、国鉄が新会社へ向けた最後のはなむけとばかり、様々な改造車が登場します。

その最たるものは、「あさかぜ」用のグレードアップ改造です。食堂車の一部をラウンジ風に改装し、かつ2人用B寝台個室やシャワー室を初めて導入し、かつ一般のB寝台車もカーテンや絨毯の張り替えがなされるなど、以前に比べて大幅にアコモが向上しました。これは、「殿様あさかぜ」の夢よもう一度、という国鉄技術陣の「最後の意地」が凝縮されたものだったように思います。
もちろん、今にして思えば、後に登場した「北斗星」などの車両の方がハイグレードなアコモであり、「あさかぜ」は中途半端なグレードアップだったのではないかと思いますが、当時は「あさかぜ」をはじめとする東京ブルトレにはそれなりの乗客がついており、劇的な定員減を伴うグレードアップ改造には二の足を踏んだのではないかと思われます。その意味では、現在の視点で当時を断ずるべきではないのでしょう。


その他、当時は青函トンネルの開通が間近に迫っていましたから、上野-札幌間のブルトレ運転が計画されていて、そのための車両の転配・改造も順次進められました(当時は『北斗星』という愛称は決まっていなかった)。このとき、1往復は北海道会社持ちになることが予想されたため、一部の24系25形は青森にとどまりながら札幌への転属がなされるなどの措置がとられました(青函トンネル開通までは『ゆうづる』などで使用)。
これに従って、青森所属(書類上の札幌所属車も含む)の24系25形には、「あさかぜ」用と同等のグレードアップ改造に合わせ耐寒・耐雪化改造(ドアの折戸→引戸化など)が行われ、一部はハイグレードな2人用A個室寝台車・オロネ25500として「ゆうづる」に組み込まれました。このころの青森には、24系25形だけではなくオリジナルの24系もいましたので、列車によっては白・銀・金の3色の帯を巻いた列車が見られるようになりました。


この改正が行われた5ヶ月後の昭和62(1987)年4月、国鉄は分割・民営化され、新しい会社「JR」が発足します。ブルトレたちは車体に新しい「JR」のロゴを纏ったくらいで、それまでと変わらずに活躍していましたが、青函トンネルや瀬戸大橋の開業が間近になるにつれ、それまでとは全く異なる、新しい発想のブルトレが登場することになります。


※4/30 20:35 一部加筆


その17(№507.)へ続く