その3(№401.)から続く


昭和38(1963)年「みずほ」が登場し、日豊本線にもブルトレが登場したことから、九州ブルトレの基本的な骨格ができあがりました。

その1年後、昭和39(1964)年10月1日には東海道新幹線東京-新大阪間が開業し、在来線の電車特急は新幹線に使命を託して全廃されます。


この昭和39(1964)年10月と、さらにその1年後の昭和40(1965)年10月の2度にわたるダイヤ改正は、ブルトレ(当時はまだこのような呼称はありませんでしたが)の列車体系や車種構成に変容をもたらすことになりました。


まず、列車体系の変容として特筆されるのは、それまで東京-九州間の特急にばかり投入されていた20系客車が初めて上野発の東北線系統の列車に投入され、「はくつる」と命名されました。この列車は、ナロネ21・ナハネ20・ナシ20などを連ねた編成で、青森方の2両は「あさかぜ」から引っ越したナハ20・ナハフ20の座席車でした。
「はくつる」は、下りは上野を夕方に発車し青森に早朝に到着、上りは青森を深夜に出発するというダイヤでした。当時は青函トンネルなどありませんから、その先は青函連絡船ですが、下りは昼前に函館に到着でき、そこから特急に接続し午後に札幌に達することができるというダイヤ、上りは夕方少し前に札幌を出れば深夜に青森を出る「はくつる」に乗ることができるというダイヤでした。現在、東京-札幌間は航空機がメインになってしまいましたが、当時はまだまだ鉄道利用が多数でしたから、東京での時間が有効に使えるこのダイヤが考案されたのです。

この列車は好評を博し、翌年早速常磐線経由の兄弟列車「ゆうづる」が新設され、以後増発に次ぐ増発を重ねていくことになります。


余談。

それまで、20系使用の特急列車には、これといった愛称などはありませんでした。国鉄部内で「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」の3列車のことを「ブルーの3姉妹」といっていたことがあるくらいで、事実上「九州特急」などといわれていましたが、東京から九州ではなく北へ向かう列車ができてしまうと、「九州特急」では実態に合いません。そこで、別のニックネームが求められましたが、フランスでパリ-ニース間の豪華寝台列車を「Le Train Bleu」(青列車)と称したことから、これを英語読みにした「ブルートレイン」という愛称が使われ、定着していくことになります。

ただし、国鉄は「星の寝台特急」などというキャッチフレーズを使っていたようですが、「ブルートレイン」という言葉を宣伝に使うことは、積極的にはしていなかったようです。


昭和39年のエポックといえばもうひとつ。

それまで「みずほ」の付属編成が達していた大分に、独立した列車として東京発の5本目のブルトレが登場しました。この列車は「富士」と名付けられましたが、個室寝台車もないぐっと大衆的な編成で、戦前の日本を代表する名列車だった「富士」の名を冠する列車としては、いささか物足りない感があったことも事実です。ちなみに、「富士」はこの改正まで東京-宇野間の昼行特急列車に冠せられていた愛称でしたが、新幹線開業に伴ってこの列車が廃止されたことにより、浮いた「富士」の愛称を日豊線系統のブルトレに命名したものです。
この列車は翌年、昭和40年のダイヤ改正の際に西鹿児島(当時)まで延長され、日本で最長距離を走るブルトレとなりました。

このころから、ナロ20・ナハ20・ナハフ20などの座席車は、順次寝台車に改造されるようになります。これは、新幹線の開業によって座席の需要が減少したことと、寝台の需要が依然として旺盛なので寝台車の数を増やしたいというのが理由でした。座席車よりも寝台車の方が料金収入が大きいですから、国鉄としては、客単価を上げるために収益率の大きい寝台車オンリーの編成に方針転換を図ったのでしょう。

最初に改造されたのはナハフ20・ナハフ21で、それぞれ窓は座席車時代の小窓のまま寝台区画を内部に構築し、ナハネフ20・ナハネフ21となりました。その後、ナハ20やナロ20が寝台車に改造されるときには、外板をそっくり取り替え、新製車と全く変わらない姿で登場し、ナハネ20の500番代として登場しています。これら改造車は、一足先に昭和57(1982)年ころまでに退役してしまいました。


昭和40年のエポックは、「新幹線接続列車」という新しいカテゴリーのブルトレが登場したことです。
このとき、新大阪-西鹿児島・長崎間に、新しいブルトレ「あかつき」が登場し、新幹線「ひかり」と接続するダイヤを構成します。この列車こそ、ブルトレ史に燦然と輝く「関西ブルトレ」の端緒となった列車として記憶しておくべきでしょう。

この列車のダイヤで特筆されるのは、何といっても北九州・福岡地区を深夜に通過するダイヤです。これは鹿児島地区に午前中に到達するためにダイヤを組んだ結果ですが(実はこれこそが、「はやぶさ」と比べたときの「あかつき」の大きな売りだった)、このときは、かつての「あさかぜ」の大阪地区深夜通過のときと異なり、あまり問題にはならなかったようです。あるいは、このときには既に列車の性格を明確にしたダイヤ構成という考え方が浸透してきたのかもしれません。

「あかつき」は、新幹線の延伸・充実に伴って増発に次ぐ増発を重ね、昭和50(1975)年の新幹線博多開業直前には新大阪・大阪-熊本・西鹿児島(当時)・長崎間に7往復を数えるまでに成長しています。


ところで。
昭和40年当時、山陽線の全線電化が前年に完成し、鹿児島線の電化は10月に熊本まで達していましたが、まだ熊本-鹿児島間は非電化でした。北は常磐線の平(当時)以北は非電化、東北線もこの年10月にようやく盛岡まで電化、その先はやはり非電化でした。これら非電化区間では依然として蒸気機関車(SL)がブルトレの先頭に立ってきたのですが、これらも徐々にディーゼル機関車に置き換えられ、最後は「ゆうづる」の平-仙台間になります。この区間の牽引機がかつて東海道線などで「つばめ」「はと」などを牽引したのと同じ「C62」形だったことなどにより、運転時間帯が深夜から早朝にかかるなど撮影には大変な悪条件だったにもかかわらず、今でいう「撮り鉄」の人気が爆発し、「常磐線詣で」をする愛好家が激増しました。これが世間的にも注目され、「SLブーム」として後につながっていくことにもなります。


こうして、ブルトレは仲間を増やしながら、寝台化・無煙化など近代化も着々と推し進めていきます。
しかし、夜行列車の増発は、車両基地のキャパシティという新たな問題を発生させることになりました。
次回は、そのあたりのお話も交えて、さらなる飛躍の過程を見て参りましょう。


その5(№415.)へ続く