-その3(№357.)から続く-


昭和47(1972)年、颯爽と登場した「アイボリーの貴公子」6000系は、京王初の20m4ドアという大型車両であることはもちろん、都心への直通と多摩ニュータウンへの輸送という、京王にとっては新しい使命を帯びた車両でもありました。

前回は「アイボリーの貴公子」が都心を目指した顛末を取り上げましたが、今回は他方の終点-多摩ニュータウンの輸送を取り上げます。


多摩ニュータウンへのアクセスは、小田急・京王・西武の3社が新線を建設して用意するものとされました。小田急は百合ヶ丘-柿生間に新百合ヶ丘駅を新設し、そこから新線を伸ばすことになりましたが(現在の小田急多摩線)、京王は調布-京王多摩川間の支線を活用し、それを延伸して対応することになりました。この支線は大正5(1916)年開業という古い歴史を誇りますが、多摩川の河原で取れる砂利の運搬が主目的だったようです。
ところで、多摩ニュータウンへのアクセスに西武が挙げられていることは驚かれるかもしれませんが、これは西武多摩川線を延伸する計画でした。しかし、これを実行すると国鉄(当時)中央線の混雑が激化するという理由で中止され、現在見られる路線形態になっています。

この路線は、昭和43(1968)年の都市交通審議会(当時)の答申によって示された「都市計画10号線」の一部をなすもので、昭和46(1971)年4月に京王よみうりランドまで開業したのを皮切りに、順次路線を延ばしていき、多摩センターまで到達したのはその3年後、昭和49(1974)年10月のことです。


この路線が本領を発揮するのは昭和55(1980)年3月の都営新宿線新宿開業・相互直通運転開始のときで、このときから、「アイボリーの貴公子」は地下鉄乗り入れ用にチューンナップされた特別仕様車(車号末尾を30番代として区別。地上線用8連貫通編成は5M3Tだが、こちらは6M2T)が都営新宿線への乗り入れを開始しました。ただし、京王の車両は当時の終点だった東大島までは入ることはなく(異常時はともかく通常運用としては)、途中駅の岩本町で折り返す運用が組まれました。乗り入れ相手である東京都交通局の10-000型も、京王新線の笹塚までの乗り入れにとどめられました。こちらは早朝・深夜などには桜上水やつつじヶ丘までの運用もあったものの、相模原線まで遠征することはありませんでした。

その後、都営車・京王車とも乗り入れ範囲を拡大し、昭和62(1987)年12月から都営車による相模原線直通の快速列車が登場し、平成3(1991)年には京王車も本八幡まで達するようになりました。そう考えると、京王の6000系は、京王で初めて千葉県に達した車両ということになります。


このように、京王線と都営新宿線の相互直通運転は、多摩ニュータウンから新宿・都心への直行ルートを開いたものでした。かたや小田急は、この当時は4両編成が行き来するローカル線然とした車両運用でしたが、これは、本線の線路容量が逼迫しすぎていて多摩線からの直通列車が設定できないことによるものでした。そのため、利便性で京王には大きなアドバンテージがあったため、京王の旅客は順調に増えていきます。
京王相模原線は、平成3(1991)年に相模原市の橋本まで達し、遂に全通します。計画ではこの先、津久井方面への延伸計画があったそうですが、その免許は失効してしまい、橋本駅突端にはビルやマンションが建ってしまったため、横浜市営地下鉄の関内駅と同様、延伸計画の復活は望み薄と言わざるを得ません。


この相模原線全通の1年後、京王は相模原線に「特急」の運転を開始します。
これは、それまで優等列車が快速しかなく速達性に欠けていた相模原線の到達時分短縮を狙ったのはもちろんですが、実際のところは、ライバルである小田急に完膚無きまでに差を付けておこうという目論見があったのかもしれません。小田急はその気になれば、千代田線によって原宿・表参道・霞ヶ関・大手町に直行できるため、京王よりも大きな潜在能力を秘めていると思われたからです。ちなみに、小田急多摩線から千代田線直通の列車が運転されるようになるのは、相模原線特急運転開始から実に8年後の平成12(2000)年のことです。

この特急の停車駅は新宿・明大前・調布・京王多摩センター・橋本とされ、6000系の地上線用8連などが使用されました。後にはこの特急用に8000系8連(8020番代)が投入されています。


しかし、鳴り物入りで始まったこの特急、評判は必ずしも芳しくありませんでした。その理由は、停車駅が少なすぎることとスピードが遅いことです。一応京王多摩センターで緩急接続は行っていたようですが、それでも相模原線内の停車駅が同駅だけというのは、あまりにも少なすぎ、かえって使いにくかったように思います。せめて、京王永山や南大沢には停車してもよかったのではと思いますが…。もうひとつのスピードの問題は、上下とも高尾系統の急行(当時の高尾線系統の最優等は急行だった)に頭を押さえられたため、明大前-調布間のスピードが、同じ「特急」でありながら、八王子行きのそれよりも明らかに遅いのです。これには乗客も大ブーイングでした。

結局、平成13(2001)年のダイヤ改定において、この「特急」を廃止し、新たに「急行」を相模原線内に設定して停車駅を増やし、この列車を調布で特急又は「準特急」(新設)に接続させて利便性の向上を図ることになりました。このダイヤの転換は、途中駅の利便性をアップさせ、なおかつ乗り換えを厭わなければスピードアップにもなるという、一石二鳥の効果をもたらしています。ちなみに、日中の都営新宿線直通急行は、都営新宿線内でも急行運転を行っています。


相模原線-都営新宿線直通系統は、高尾・八王子方面への優等列車とともに、「アイボリーの貴公子」の晴れ舞台でもありました。
しかし、平成4(1992)年から8000系が投入され、高尾・八王子方面からの優等列車から6000系は外されていきました。それでも上記の直通系統は依然として「晴れ舞台」だったのですが、それも平成17(2005)年、後継車9000系(30番代車)が登場し、ここからも段階的な撤退を余儀なくされています。
既に6000系は、分割特急用の5+3連編成が事業用に改造された3両を除いて全て退役しており、その他も数を減らしてきています。京王は平成22(2010)年までに鉄道線全車両をVVVFインバーター制御方式に統一するというアナウンスをしていますので、この「アイボリーの貴公子」もそれまでの命です。他の大手私鉄、例えば狭軌の東急や西武、あるいは中型車を使用している京急などであれば、中古車として第二の職場を探すこともできるでしょうが、京王線は軌間が特殊なため台車の交換が必要になるので、それも望み薄でしょう。


同世代の東急8000系や京阪3000系、西武101系等と比べると地味な車両ではありますが、彼ら「アイボリーの貴公子」も、発展期の京王を支えた大功労者(車)であることは、衆目の一致するところだと思います。


その5(№377.)へ続く