その3(№349.)から続く


103系は、もともと山手線や大阪環状線など、駅間距離の短い路線に特化した性能を持つ、言うなれば「特殊用途車」のはずなのですが、それが当初の目論見に反して大増殖していきました。その理由はラッシュ対策と、極限まで推し進められた標準化です。

国鉄は、151系をつくったとき、車種があまりにも増えすぎ、保守・点検の手間が増えたことがトラウマになってしまいました。また、標準化を推し進めれば、予備部品を共通化でき経費削減にもつながるということも理由にありました。そのようなわけで、昭和40年代の国鉄では、103系は勿論のこと、113・115系や485系が大増殖していきました。

以下に、103系大増殖の系譜を見て参りましょう。なお、山手線や京浜東北線は除いております。


103系は昭和42(1967)年から、東は常磐線、西は阪和線に投入されます。
この2路線は、前者は駅間距離が長い、後者は駅間距離は短いものの高速運転を行っているということで、103系には合わない路線でしたが、それでも当時の国鉄本社は、標準化の目論見から新形式を作らず、103系のリピートオーダーとなりました。
これと前後する昭和41(1966)年、国鉄は地下鉄との初の相互直通運転のために、アルミ車体の301系を投入しますが、この301系はメカ的には103系と全く同じですので、同系の兄弟車といえます。
この昭和42(1967)年、国鉄は超多段制御試作車の910番代を世に出しますが、この車両の使用実績は、後の地下鉄千代田線乗り入れ用1000番代に結実します。ちなみに、この910番代はモハのみが作られ、JR化直前まで山手線で働いていましたが、その後常磐線に転じ、一部は電装解除してサハ化されました。この車両はJR化後早期に廃車されています。この車両の実績を生かした1000番代は、昭和46(1971)年からデビューしますが、断面積の狭いトンネルのため抵抗器から熱が逃げず、そのため床下の配線が蒸し焼きになる現象に悩まされました。また、消費電力も営団(当時)の6000系より大きく、車両の走行距離だけでは使用料が相殺できず、国鉄は営団に電気代の相当額を支払っていたそうです。この電気代の支払いは、昭和60(1985)年に203系に置き換えられるまで続きました。


さらに、大阪環状線、東海道・山陽緩行線、中央快速線にも103系の投入が開始されます。大阪環状線投入の際には、不足するT車を賄うためにサハ101から改造した車両が現れました(サハ103-750番代)。
大阪環状線は山手線と同じような環境なので問題はないのですが、さすがに東海道・山陽緩行線や中央快速線となると、103系では無理が現れるようになってしまいました。それでも、窓のユニット化や冷房装置の搭載などの体質改善が図られ、少しずつですがレベルアップしています。初期のユニット窓車や冷房車(非ATC車の低運車でも新製冷房車は存在した)は、中央快速線に一部が投入された他は、その大半が東海道・山陽緩行線に投入され、首都圏ではほとんど見ない外観になりました。管理人は高校生のころ、京都駅で非冷房の103系ユニット窓車を見て、強烈なカルチャーショックを受けたことがあります。
ちなみに、この窓の非ユニット→ユニットという過渡期の途中に増備されたのが、東西線直通用の1200番代です。


続いて、昭和48(1973)年から山手線や京浜東北線のATC化準備が始められ、増備される103系もATC装置を搭載した先頭車となりました。この先頭車は、それまでの先頭車とは異なり高運転台構造とされ、前面窓の上下寸法が狭められましたが、その狭められた前面窓の下には細いステンレスの飾り帯を配するという、103系の決定版ともいえるスタイルで登場しました。

それはいいのですが、この当時は、全車冷房車・両端ATC対応の貫通編成が車両メーカーから落成すると、両端の先頭車だけを山手線や京浜東北線の在来編成に組み込み、外した低運転台の非ATC車を新車の中間車の両端につなぎ、それを東海道・山陽緩行線や中央快速線に投入していきました。もちろん、両端の非ATC車は冷房改造が施されますが、それが間に合わない事態も出来しました。こうなると悲惨です。冷房装置の制御盤は先頭車の運転台にありますから、それがない非冷房の非ATC車では中間の冷房装置を駆動させることができませんでした(その後、制御盤だけを取り付けて冷房を使用可能にした編成も登場したようですが)。逆に、両端の先頭車だけがATC車(=冷房車)の編成は制御盤があるから大丈夫だろうと思いきや、さにあらず。この場合は冷房用電源(MG)が中間車に搭載されていないので冷房装置を駆動させることができない。このような次第で、「正真正銘の冷房車のはずなのに冷房装置が使えない」という編成が続出しました。東急でも同じころ、クーラーのキセ(カバー)だけを積んだ「空ラー車」がいて、沿線利用者の大顰蹙を買っていましたが、こちらは冷房装置を搭載しているだけ悪質(?)でした。


この当時、103系は編成単位ではなく、それこそ1両単位で各線区を渡り歩いたため、1編成で色が揃わない「混色編成」が出現し、TVドラマで面白おかしく取り上げられるなど、社会的にはちょっとした騒ぎとなりました(愛好家の一部は大喜びだったようですが…)。これも、103系が両数が多く、広域転配が可能だったことを裏付けるものでしょう。103系も首都圏や近畿圏だけではなく、名古屋地区や仙台(仙石線)でも使われるようになります。

昭和54(1979)年には電機子チョッパ制御の「省エネ電車」、201系試作車が登場しましたが、依然として103系が量産されていました。昭和56(1981)年、福知山線尼崎-宝塚間が電化されることになりましたが、そこに投入される通勤車は、この年量産の始まった201系ではなく、103系のリピートオーダーでした。この103系は当時関西にはなかったカナリアイエローで登場し、強烈なインパクトがありましたが、この期に及んで103系のリピートオーダーになったのは、イニシャルコストが安いことや、東海道・山陽緩行線系統と予備車や予備部品を共通化できることが魅力的だったのでしょう。
なお、このとき新造されたグループが、編成単位で製造された103系(特殊用途車を除く)の最後となっています。


この翌年、昭和57(1982)年には筑肥線の福岡市営地下鉄乗り入れ用として、1500番代が登場します。しかし、この年は既に201系ばかりか203系の投入が始まった時期で、それなのにあえて103系にしたのは、列車密度の関係でオーバースペック(過剰性能)になることを考慮したためといわれます。この1500番代が、編成単位で製造された103系の本当のラストになりました。


103系の増備は、何と201系の増備が打ち切られる1年前の昭和59(1984)年まで続けられました。最後のMM'ユニットは池袋電車区(当時)に投入されましたが、これは最初の8両が投入されたのと同じ電車区でした。


結局、103系は実に3,447両が新製され、1970~80年代の国鉄の通勤輸送を支える大黒柱となりました。
本来であれば、山手線や大阪環状線などの特殊線区用でしかなかった103系が、ここまで大増殖したのは、やはりラッシュ対策という現場からの要請が強かったことと、当局としても車種をできるだけ統一化したかったということでしょう。

しかし、その試みは、当時としては成功していたとはいえないようです。現在、E231系がいろいろな用途に使用されていますが、主電動機の歯数比を変えるなどの対応だけで、条件の異なる用途に適合しています。ことによると、103系の大増殖は、狙いとしては正しかったものが、技術の裏付けがないために硬直化してしまったのかもしれません。そう考えると、現在の目で当時を見て当時の国鉄の対応を批判するのは憚られるものがあります。


その5(№360.)に続く