その1(№338.)から続く


101系は、旧型車に比べて格段に優れた高加減速や乗り心地、両開き扉の採用によるラッシュにおける乗降の容易化(それまでの72系使用列車に比べて遅延が大幅に減少した)などにより、乗客から好評をもって迎えられました。国鉄も、試作車登場の翌年3月には、早くも量産車の投入を決定し、オールMの10連が中央快速線を走り始めました。


しかし、101系が走り始めると、オールM方式の限界が顕著になってきました。それは、変電所容量の問題です。旧型車両の編成はMT比率が1:1よりやや高いくらいですが、これに対し。新性能化でエネルギー効率が高められたとはいえ、オールMの10連では、変電所への負荷が非常に大きくなってしまいました。そのため、101系がラッシュ時に走ると(当時の国鉄はラッシュ対策として101系を優先的にラッシュ時の運用に充当していた)、架線電圧の降下が著しくなってしまいました。これでは、御自慢の高加減速も絵に描いた餅になってしまいます。

そこで、国鉄は、初期投資額の大きい変電所の増強をとりあえず二の次とし、101系にT車を組み込むことで電力総消費量を抑えるという方策を採ります。その方策に沿って、早くも量産車登場の年の12月、101系としては初のT車サハ98(→サハ100・サハ101)が製造され、その後の編成はこのサハ98を2両組み込んだ8M2Tの編成で増備されました。ただし、この車両はT車でありながら、その気になればすぐ電動車に改造できるような構造になっていました。具体的には、台車に電動車と同じものを用いたことや、パンタグラフの取付台を作っておいたことなどです。
昭和35(1960)年、国鉄は、101系にどこまで付随車を連結できるのかという実験を行っています。結果は、10連の場合6M4Tなら問題なし、しかし8連で4M4T(MT比1:1の場合)、混雑率が150%以上になると主電動機にかかる負荷が大きくなりすぎるという結果がでました。

この結果に鑑み、国鉄は、中央快速線用の101系について、8M2Tから6M4TまでMT比を落とすこととし、Tc車クハ100・クハ101が製造されました。この車両が世に出た当初、国鉄は依然としてオールM方式を放棄しておらず、これらTc車についても、将来すぐに電動車として改造できるような構造になっていました。しかしそれも初期車だけで、後期に登場した車両は完全なTc車になってしまいました(これはサハ100・サハ101も同じ)。この「完全T車」が世に出た時点で、101系の当初のコンセプトは挫折したと評して差し支えないのでしょう。


このような101系のコンセプトの蹉跌を表している事象としては、山手線への投入がありました。これは昭和35(1960)年から開始され、車体色もオレンジバーミリオンではなく鮮やかなレモンイエロー(カナリアイエロー)とされ国電のカラー化に寄与しています。
国電のカラー化に寄与した101系も、MT比に関しては悩み多い系列でした。当初、山手線は20m車と戦前形17m車が8連を組んでいたのですが、101系は全車20m車ですから、101系を8連で入れてしまうとホーム長が足りません。そこで、当初は4M3Tの7連で投入することとし、後に8連(6M2T)に改められています。
しかし、同線の所属車両を全て101系に置き換えた場合、MT比が従前のままならば、やはり変電所の増強が必要であることが分かってきました。また、そもそもの問題として、山手線は駅と駅の間の距離(駅間距離)が短く、このような路線には高加減速の車両が最適なのですが、だからといってオールM方式ではない101系では、必ずしも所期の効果が期待できないこともまた、明るみに出てきました。


このことから、国鉄は、MT比1:1でも高加減速その他の性能条件を満たし、経済的に運用できる通勤車両の開発に着手します。それが、昭和38(1963)年に試作車が登場した103系です。

101系は関西地区では大阪環状線などに投入され、東京地区でも総武・中央緩行線に投入されますが、MT比率は6M4Tでした。こと総武・中央緩行線への投入まで至ると、もはや「高加減速」は完全にどこかに消し飛ばされ、旧型車よりは優れた性能や、両開き扉の採用によるラッシュ対策などにウエイトがおかれ、オールM方式による高加減速の通勤車というコンセプトは、完全に頓挫してしまいました。
それでも101系の製造は103系と並行して進められ、最後の新製車が世に出たのが昭和44(1969)年でした。これは、103系が駅間距離の短い線区に特化した性能だったのに対し、101系は103系よりも高速巡航性能に優れていたことから、車両需給の関係で増備を継続したことが理由です。つまり、101系の最適任線区は駅間距離の長い線区、具体的には中央快速線や常磐快速線、東海道・山陽緩行線などでした。現実には後2者には103系が投入されていますが、この103系はこれらの線区には適した性能ではありません。
それでも103系は3500両(派生番代含む)もの大所帯となり、国鉄を代表する通勤車になっていきました。


次回からは、2回にわたり、103系開発の経緯及びそこまで大増殖した理由について、掘り下げていきたいと思います。


その3(№349.)に続く