当ブログの連載記事は、「原則として毎週火曜日更新」を謳っているにもかかわらず、本業の超多忙によりウヤにしてしまい、誠に申し訳ございません。
というわけで、今回は特発記事です(^^ゞ


今年平成19年、2007年は、国鉄(※)に101系電車が登場して半世紀の節目にあたります。この101系は、4ドア・20m・ロングシートなど、様々な意味で日本の通勤車の礎(いしずえ)を築いた車両と評して過言ではありません。

その101系を「新性能車」の第1世代とすると、その後に登場した国鉄・JRの通勤車を以下のように分類することができます。


第1世代 抵抗制御 101系・103系・301系
第2世代 電機子チョッパ制御 201系・203系
第3世代 界磁添加励磁制御 205系
第4世代 VVVFインバータ制御 207系・209系・E231系など


そこで、本連載では101系からE233系/321系に至るまでの、国鉄~JRの通勤車の系譜を取り上げます。よろしくお付き合いのほどをm(__)m 


それまで「国電」といえば茶色い車両、しかも重々しい吊り掛け駆動がデフォルトだった中へ、50年前の昭和32(1957)年、「高性能電車」101系(昭和34(1959)年の称号規程改正まではモハ90といった)の試作車が颯爽と現れました。
この車両の先進的なところはいろいろありますが、ざっと挙げると以下のようなものです。


1 外装は明るい朱色(オレンジバーミリオン)を採用。
2 窓は2連窓を採用し、全開も可能な明るく通風性にも優れた構造。
3 扉は1.3m幅の両開き戸を1車両につき4か所配置。
4 旧来の吊り掛け駆動から脱し、平行カルダン方式を採用。そのため走行音が静か。


このほか、試作車は後の量産車とは異なり、屋根上の通風器が四角い押し込み式だったことや、外板を高く立ち上げて雨樋をその中に収納する、張り上げ屋根に近い構造がとられるなど、現在の水準からみても優れたデザインの車両でした。
両開き扉は、戦時中に試作したサハ75021以来のもので、ラッシュ対策として採用されたものです。
ただしこのモハ90は、こと内装に関する限りほとんどみるべきものはなく、昭和31(1956)年まで投入が継続されていた72系全金属車とほとんど同じアコモデーションで、どちらかというと質素な感じにまとめられています。先頭形状も「食パン」と呼ばれる切妻で、これも72系全金属車と共通しています。
これは、当時の国鉄にはまだまだ「電車劣位」(=優等列車や長距離列車は客車が最適で、電車は都市近郊の短・中距離列車にしか使えないという考え方)の考えが根強かったことや、通勤車には余分なコストをかけたくないという意識が強かったためであろうと思われます。


国鉄は、新しい技術の採用にはよく言えば慎重、悪く言えば消極的なところがあって、このような技術の採用は私鉄各社の方が先んじていました。このモハ90が出た当時、同じような「高性能車」としては、既に4年も前に営団地下鉄が300形を世に出していますし、東急の「青ガエル」5000系や小田急の2200系も、モハ90よりも早く誕生しています。国鉄も、スペックに改良を加えつつ72系を投入していきますが、メカは従来車と同じ吊り掛け駆動です。この吊り掛け駆動車では、加減速の性能に難があり、運転時間の間隔を詰められないことや、72系は4ドアといえども、幅1mの片開きドアのため乗降に手間取り遅延が常態化していたこと(当時の国電の混雑率は250~300%はざらだった)などから、もはや72系の増備で通勤輸送を賄うのは無理ではないかという見通しを持つに至ります。
そこで、国鉄は、乗降もスムースにでき、かつ高い加減速度を持つ新型通勤電車の開発に取り組みます。その取り組みの結果世に出たのが、モハ90試作車でした。


この車両は、国鉄の電車として初めてMM'ユニット方式を採用し、前電動車方式で高い加減速を実現しようとしたもので、McM'c+McM'MM'MM'MM'cの10両が世に出ました。

この車両は技術面でいえば、東海道線での高速度試験に供されて電車特急「こだま」や新幹線につながる貴重なデータを提供したとか、回生ブレーキ(主電動機を惰行時に発電器として使用し、そこから発生した電力を架線に戻す)の試験車が登場し試験に供されたとか、様々な金字塔がありますが、一般乗客にとってのインパクトは、やはり何と言ってもオレンジ色の車体塗色でしょう。なにしろ、それまでは茶色一色だった中に、突如として鮮やかな極彩色を纏った電車が現れたのですから、当時の沿線住民や一般乗客に対する衝撃たるや、それは大変なものだったと思われます。当時既に80系が緑+オレンジ(モハ90より黄色味が強い)、70系がクリーム+紺の塗色を纏っており、国電のカラー化は少しずつ進んでいましたが、おそらくインパクトではモハ90に敵うものはなかったと思われます。

そのためかどうか、このモハ90は、丸の内のオフィス街に勤務するOL(当時はこの言葉もなかった)たちから「金魚」なるニックネームを頂戴することになります。
ちなみに、中央快速線に次ぐ投入線区は山手線とされ、ここにはカナリアイエロー(鮮やかな黄色)の塗色が採用されたことから、本当の意味で「国電のカラー化」を押し進めた功労者(車)は、101系だったのではないかという評価も、的外れではないと思います。


モハ90は乗客から好評をもって迎えられ、これに自信を深めた国鉄は、量産車の投入を決断します。
しかし、この量産車は、雨樋を外付けにしたり、通風器をそれまでの旧型車両が使用していた「グローブ形」と呼ばれる円盤形のものに変えたりするなど、細かいところにコストダウンが図られています。
この量産車も、当然のことながらオールMで投入されますが、そこには思わぬ「伏兵」が登場し、101系の性能を最大限に発揮する機会は、事実上奪われてしまうことになります。


次回は、そんなモハ90→101系の勢力拡大とコンセプトの蹉跌をみていくことにいたします。


その2(№343.)へ続く