その8(№107.) から続き-


昭和44(1969)年5月10日、沿線住民に惜しまれながら、「玉電」こと玉川線が62年の歴史にピリオドを打ちます。その翌日から、国道246号線上では首都高速道路3号線の工事が始まり、さらに新玉川線の工事も始まりました。

同じ年、東急は、将来の新玉川線での使用を見込んだ、東急初の20m4ドアの大型車8000系を東横線に投入し、車両面での準備も着々と進めていきます。

それと同時に、バスによる代行輸送が始まりましたが、かなり壮絶を極めたようです。当時既に国道246号線の渋滞が激しくなっており、定時運行も非常に困難になっていましたし、いかに玉川線が路面電車サイズとはいっても、バスより大きな輸送力がありましたから、代行バスの混雑も大変なものでした。1kmくらいの距離しかない上馬-三軒茶屋間が1時間近くかかったとか、バス停にバスが着いても来るバスがどれも満員で、1人も乗れないどころかバス停の列だけが長くなっていったこともあったという逸話が残っています。新玉川線の開業は、前回触れた田園都市線の殺人的な混雑を解消する切り札としてだけではなく、国道246号線の麻痺状態を改善する切り札としても望まれていました。

玉川線廃止から8年後。昭和52(1977)年4月7日、新玉川線の渋谷-二子玉川園間が開業しました。田園都市線沿線住民にとっては都心への直通ルートの完成ですし、玉川線沿線住民にとっては、玉川線の復活といえます。
新玉川線の車両は、8000系に一部設計変更を施した、新車8500系の6両編成が用意されました。しかし、6両編成全部が純粋な新車というわけではなく、在来の8000系車両を組み込み、しかも3号車には運転台付の車両を組み込むという、非常に奇妙な編成でした。このような奇妙な編成を組んだ理由について、一説によると、新玉川線の工事が東急の企業としての屋台骨を揺るがしかねない大プロジェクトであったため、新車投入を最小限にしたともいわれています。この運転台付の車両は、やはりラッシュ時の輸送に問題があったのか、昭和56(1981)年ころまでに全て編成から抜き出され、東横線に戻されました。


しかし、開業当初は渋谷から先の半蔵門線区間が未開業で、しかも渋谷駅の折り返し能力が十分ではないとして、期待された田園都市線との直通は実現せず、線内のみの折り返し運転でした(鷺沼出入庫を除く)。また、二子玉川園駅は新玉川線が折り返し運転をする計画で建設されていたため、新玉川線の列車が中央に入る構造でしたから、将来の田園都市線との全面的直通運転には不利な線形でした。そのため、この構造をいつ作り直すか、後々まで尾を引くことになりました(平成5(1993)年に作り直し着工、平成12(2000)年に完成)。
また、新玉川線が開業しても、東急の目論見どおりに乗客が転移してはくれませんでした。その最大の理由は、新玉川線の運賃が著しく割高になったことです。東急は新玉川線に加算運賃を設定し、膨大な建設費を償却しようとしました。例えば、渋谷-二子玉川園間は自由が丘乗り換えの場合70円なのに対し、新玉川線経由の場合短時間で直行できる代わりに120円と、実に50円も高くなりました(運賃はいずれも当時)。もう1つの理由は、新玉川線の渋谷駅の立地です。この新駅は実に地下14.9mと深く、他の路線との乗り換えには手間取ったからです。そのためか、新玉川線開業と同時に廃止されるはずだった代行バス系統も、一部の整理が行われただけで、全面的な廃止はされていません。


それでも田園都市線列車の渋谷直通は熱望され、開業からわずか7か月後の11月16日、渋谷-長津田間の直通快速列車が運転を開始しました。停車駅は新玉川線の各駅と「通勤快速」の停車駅です。この直通快速列車は、朝ラッシュ時のダイヤに余裕がないという理由から日中のみの運転とされました。朝は新玉川線への直通快速がない代わり、大井町への「通勤快速」が依然として運転されていました。


昭和53(1978)年8月1日、営団半蔵門線の渋谷-青山一丁目間が開業すると、懸念された折り返し能力の問題は解消しました。ここでようやく、東急の懸案、すなわち田園都市線の列車を全て新玉川線に直通させる運転系統の変更が、実行に向けて動き始めます。その「実行の日」は、昭和54(1979)年8月12日と決定しました。なぜこの日に決まったかについては、その日がお盆休みで通勤客が減るため、運転系統の変更による混乱を最小限に抑えられるというのが理由でした。
この運転系統の変更に先立ち、東急の検車区が開業当初の鷺沼から長津田に移されることになり、昭和54(1979)年7月に長津田検車区が開業しました。東急が明け渡した鷺沼検車区には、昭和55(1980)年9月に営団が鷺沼検車区を開設し、半蔵門線用の自前の新車8000系を配属しています(営業開始は翌56(1981)年9月から)。


昭和54(1979)年8月12日の運転系統変更と同時に、田園都市線の列車は全て新玉川線・半蔵門線に直通することとなり、車両も全て8500系に統一され、同時に8両編成の運転を開始し、劇的な輸送力の増強が実現しました。同時に、二子玉川園-大井町間は田園都市線と切り離され、路線名称も「大井町線」に戻されました。大井町行きの「通勤快速」も、この運転系統の変更を機に廃止されています。ここに至って、新玉川線への乗客の転移が劇的に進み、ようやく新玉川線はその本領を発揮し始めます。
その後も輸送力増強は着実に進められ、昭和58(1983)年1月22日には、平日の朝夕ラッシュ時のみですが急行列車の運転を開始し(停車駅は二子玉川園までは快速と同じで、新玉川線区間は三軒茶屋のみ停車)、同時に東急では初めてとなる10両編成の運転を開始しました(昭和61(1986)年に東急所属編成は全て10両編成に統一)。昭和59(1984)年4月9日、東急は田園都市線の最後の区間、つきみ野-中央林間間が開業し、最初の開業から18年を経て、田園都市線が全線開業します。


平成12(2000)年8月6日、東急は路線名称の変更を実施します。それは、渋谷-二子玉川(同時に二子玉川園から改称)-中央林間間の路線を一体として「田園都市線」という名称に改めるものです。このとき、玉川線の名跡を引き継いだ「新玉川線」という名称が消えることを惜しむ声も多かったのですが、田園都市線と新玉川線とは、もはや一体といえる運転形態でしたから、かえって実体に即したものでしょう。


その10(№120.)に続く