その2(№072.)から 続き-


昭和2(1927)年に二子玉川-溝の口間が開業した当時、半直ルートの東武側及びメトロの部分は、どのような動きをしていたでしょうか。


まず、東武についてみていきましょう。

実は、東武鉄道は関東の私鉄では最も古い会社で、当時養蚕が盛んだった北関東地区の織物製品を東京に運ぶことを目的として明治28(1895)年に設立され、同32(1899)年に北千住-久喜間を開通させました。開通当時はまだ電化されておらず、SLが客車と貨車を一緒に引っ張る運転で(混合列車)、運転本数も1日7往復という、現在の特急「りょうもう号」よりもはるかに少ない運転本数でした。

余談ですが、平成18(2006)年3月から半蔵門線直通電車が南栗橋のみならず久喜にも顔を出すようになり、久喜も半直ルートの一端に組み込まれました。それにしても、東武の開通当初の起点となった駅にメトロや東急の車両が顔を出すようになるとは、東武の開通当初からの都心直通への執念を感じさせます。
閑話休題。
このようにSLによる運転だった東武が、現在のように電車を運転するようになったのは、ずっと遅く大正13(1924)年10月のことです。伊勢崎線の全線電化は、さらにそこから3 年後、昭和2 (1927)年10月1 日のことでした。さらに昭和4(1929)年4月1日、日光線杉戸(現東武動物公園)-新栃木間が開業し、ここで初めて、半直ルートの東武側が形を現しました。もっとも、半直ルートの終点である南栗橋駅の開業は、さらに時代が下った昭和61(1986)年まで待たなければなりませんでした。
従って、昭和2年当時、半直ルートの東武側は、まだ曳舟-杉戸間が形を現したのみです。


では、半直ルートの中間の部分、メトロの部分はどうでしょうか。
東京に初めて地下鉄が開業したのは、まさに昭和2(1927)年の年の暮れも押し詰まった、12月27日のことでした。この地下鉄は、東京で初めてというだけではなく、我が国で初めての地下鉄で、当時は「東洋唯一地下鉄道」というキャッチコピーがあったほどです。開通区間は浅草-上野間で、運営主体は「東京地下鉄道」(現在の東京メトロとは別物の組織です)という民間企業でした。

このような状況ですので、当然のことながら、半直ルートのメトロ部分である半蔵門線渋谷-押上間は、路線はもちろんのこと、その計画ルートすら、全く影も形も現しておりません。わずかに、市電(都電)の旧10系統のルート(渋谷-青山一丁目-四谷-九段下-神保町-須田町)が、現在の半蔵門線のルートを彷彿とさせるのみです。それ以外では、当時の私鉄が都心乗り入れを目指した免許線がたくさんありましたが、そのような免許線の中にも、現在の半蔵門線のルートにつながるもの、あるいはそれを彷彿とさせるものはほとんどありません。これは、戦前と戦後とで、繁華街の地位や成り立ちが全く違うこと、また何よりも人の流れが全く異なっていたことに原因があるものと思われます。


従って、昭和2年当時、半蔵門線ルートは全く世の中に現れていなかったといってよいのでしょう。


その後、「東京地下鉄道」は、現在のメトロ銀座線の新橋-渋谷間を開業させた「東京高速鉄道」とともに、昭和16(1941)年、国策としての特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)として再編されました。営団の設立当時の営業路線は、現在の銀座線だけでしたが、その後終戦とそれに伴う社会の復興とともに、昭和29(1954)年1月20日の丸ノ内線池袋-御茶ノ水開業を皮切りに、新線の建設を精力的に進めていきました。平成15(2003)年3月19日の半蔵門線水天宮前-押上間開業を最後に、翌16(2004)年4月1日、一般の株式会社「東京地下鉄株式会社」(通称「東京メトロ」)に組織変更され、現在に至っています。


その4(№085.) へ続く-