★映画のMIKATA【15】採録「実録東声会初代町井久之」★映画をMITAKA・・・ | 流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

都市生活者の心と言葉を掌にのせた小説、電脳化社会の記号とイルージョンを巡る映画、都市の孕むシンボルと深層を探るエッセイ、街の風景と季節の色を彩る短歌…。小説と映像とエッセイと短歌をブログに・・・掲載します。



流石埜魚水の阿呆船-東声会




ヤクザ映画のジャンルを大きく三つに分類しますと、国定忠治や清水次郎長が主人公として登場する江戸時代の街道筋を舞台とする≪股旅物≫。高倉健や藤純子や鶴田浩二が出演する明治、大正、昭和初期の時代背景を舞台にした≪仁侠映画≫。そして、敗戦まもない日本の焼け跡と闇市と占領軍の時代から昭和三十年代の日本の経済成長を舞台とした≪実録もの≫などがあります。


『やくざ映画とその時代』(1998年刊、ちくま新書)には、…股旅物と無国籍アクションを除く作品群で、主人公をアウトローに設定した映画を第一義的に≪やくざ映画≫と位置づけたいと思う。時代は昭和三十年代後半から昭和四十年代後半にかけての約十年間。この東京オリンピック前夜から七十年安保の終焉に至る時代こそが、日本映画の(邦画)にとっての最後の黄金時代だったのだ…と、書いてます。


池上本門寺は、ちょうど桜の咲く春うららの今の季節に境内を散歩すると、お墓であるにも拘らず気持ちがいいものです。墓地をくまなく歩くと歴史が見えてきます。境内には有名な故人が多数眠っています。


私も時々、仕事休みの休養に墓地を散策します。恐らく、「昭和」という時代性を触れずに池上本門寺を語れず、池上本門寺を抜きにして昭和を語れない気がします。同時に、やはり「ヤクザ」について語らない訳には行かないでしょう。゛それ程に密接です。


池上本門寺には力道山の墓があります。いまでも参拝すると、必ず花が手向けられています。墓石の傍には児玉誉士夫の揮毫による石碑が聳えてます。戦後右翼の大物、フィクサーである児玉誉士夫もここに眠っています。小道の先には、敗戦後の自民党幹事長であってた大野伴睦の墓石もあります。墓地には大きな虎の石造が本堂のほうに牙を向けてます。さらに幸田露伴の墓石のある五重塔の方向へ足を進めると、左手やや奥まった場所に町井家の墓石があります。観音像と共に建ってるのが遠くに見えます。


日本プロレス協会役員であり、力道山と親交が深かった町井久之もここに眠っています。墓地の一角には、彼が組織した東亜友愛事業組合の物故者氏名と、東声会の物故者氏名が並んでひっそりと建っています。物故者氏名を見ると二十代、三十代の若さで亡くなった組員も多い。


この中に安藤組の花形敬を刺殺したものも刻まれているのだろうか…、などと想像し、「あー、昭和という時代の青春群像なのか…」と思いを馳せます。彼らを巡る昭和史が脳裏に去来します。


 私たち一見平和で、安穏な日常生活を送っている者には、「やくざ」とは非日常的で剣呑な世界のように思われ、また、常識の埒外に身を置く集団と見ます。がしかし、昭和史をほんの少し溯るだけで、昭和の激動とともに生きた彼等が、紙一枚隔てたほどの隣り合わせの世界であったことに唖然とします。


高橋敏氏は、『博徒の幕末維新』(ちくま新書2004年刊行)の冒頭で、ペリーの率いる黒船が来襲する幕末、激動の真っ只中の嘉永六年に伊豆七島から流刑となって流された、講談でお馴染みの「吃安」こと、清水次郎長の宿敵、竹井安五郎が島抜けする顛末を追求しています。そして、博徒、侠客などのアウトローが活躍する「稗史」が最も盛んな全盛期を、幕末維新であると言っています。昭和史もまた明治維新と同様に、歴史がひっくり返り、価値観が一転した時代でありました。


 町井久之は、昭和20年代に、「中央興行社」を基盤に愚連隊町井一家を組織する。彼は昭和32年、東京・銀座で、「東洋の声に耳を傾ける」と言う理念のもとに、「東声会」を結成。その後、東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに勢力を拡大、構成員は1600人と膨れ上がりました。

 

 昭和37年、右翼活動家の児玉誉士夫によって、…一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る…という趣旨の「東亜同友会」の構想が掲げられ、錦政会(後の稲川会)・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、町井久之らに根回しを始めました。児玉誉士夫の画策の裏には、勿論、共産主義を封じ込めようとするアメリカの政治的策動がありました。


敗戦後の町井久之は、「東声会」を立ち上げる一方で、プロレス興行にも乗り出す。力道山や右翼の大物、児玉誉志夫が登場する、この≪実録東声会初代町井久之暗黒の首領≫、≪実録東声会完結編≫の二本の映画は、戦後の政治・経済に蠢くヤクザを描きながら、占領軍や政治家から朝鮮半島の政情まで、昭和の混乱期をよく描いています。


 そんな時代背景のもと、昭和38年「花形敬刺殺事件」が発生しました。 安藤組創成期と花形敬については、「渋谷物語」(梶間俊一監督)が映画化されています。特攻隊の生き残りとして、敗戦直後の東京に復員し、混沌の渋谷を自らの生きる場として選んだ安藤昇は、命知らずの特攻精神であらゆる既存の暴力組織をねじ伏せ、新宿では名の知れたヤクザにのし上がります。やがて渋谷に進出、この地で君臨しました。戦後の混乱期、やがて500人以上の組員を率いるヤクザ組織、東興業(安藤組)を発足させます。


安藤組の幹部で、極道の中でも最も喧嘩の強いヤクザと伝説の残っている花形敬がいました。本田靖春の原作を元に映画化した「疵」(梶間俊一監督)があります。


 昭和30年に花形敬と力道山が一触即発の出会いをするエピソードが残されています。渋谷宇田川町にキャバレー「純情」がオープンした時、安藤組に挨拶がなかったことから、花形敬が「純情」に赴き、マネージャーを脅すと、店内から用心棒の力道山が現れました。花形敬と力道山は睨み合い、力道山が折れて店内に消えました。花形敬は店内に入ると、プロレスラーたちのテーブルをひっくり返し、「力道山と翌日3時に銀座の資生堂で話し合いたい」と云う旨を伝えて引き上げました。翌日、力道山は資生堂に現れなかったと云います。花形敬から報告を受けた安藤昇は、力道山襲撃を計画、安藤組組員が力道山の自宅近くに待機していたが、力道山は帰宅せず、その後、元横綱でプロレスラーの東富士の仲介で、安藤組と力道山は和解します。


 本田靖春氏の『疵、花形敬とその時代』(文春文庫)には、花形敬刺殺事件を伝える読売新聞朝刊の記事を本の冒頭に引用に、さらに巻末には、花形敬が刺殺される経緯を次のように書いています。…稲川一家が勢力を拡張する一方、町井一家も渋谷への浸透ぶりを目立たせていた。そうした中で、安藤組の一人が、町井一家の一人が、若い衆といさかいを起こし、相手を練兵場の跡の空き地へ連れ出して、刃物で顔と腸をめった斬りにした。やられた側の町井一家は当然、報復しなければならない。その場合、つけ狙われるのは、安藤組を現に代表する花形である。花形は難を避けるため、渋谷を引き払って、二子多摩川の橋を渡りきった先のアパートの一室にこっそり居を移した…と。


すこし映画からは逸脱しますが、刺されたときの状況を辿って行きますと…。


昭和38年9月27午後10時15分、神奈川県川崎市二子56の料亭「仙寅」前の路上で、安藤組幹部で東会会長、安栄商事社長の花形敬(33才)が、若い男と喧嘩になり、右わき 腹を刺され死去した。犯人を取り押さえようと近くにいたデパートの男性店員(25才)と高校生は100メートル追いかけたが、東声会の刺客2人は、約150メートル離れた多摩川土手沿いの道路に待たせてあった黒塗りの乗用車に乗り込んで逃走しました。逃げる際に、乗用車から拳銃を発射しながら、二子橋方面に消えた。店員は車の中からピストルで左足を撃たれ、目撃者の1人が、腹部貫通の銃弾を受け、重体となって、近くの溝ノ口病院に搬送されました。9月30日午後10時30分、東声会会員の山崎(31)が出頭、山崎は店員を花形の子分と思い、ピストルを撃ったという。10月1日午後6時30分には、東声会の小倉(25才)が自首した。さらに10月9日には東声会の竹本(23才)が花形刺殺で逮捕され、10月10日には19歳少年も逮捕されました。 


「素手喧嘩(ステゴロ)」と呼ばれ、喧嘩に武器は一切持たないと言う英雄伝説が未だに残っている、花形敬の遺体は家族に引き取られました。「昭和」という時代を疾駆した花形敬は、東京都世田谷区の曹洞宗の寺院、「豪徳寺」に眠っています。


一本のヤクザ映画から、戦後の日本と、昭和という時代に生きた青春群像が俯瞰できるではないですか…。