もしあなたが、自分の子供、身近な子供に、こう問われたらどう答えますか?
「明日死ぬかもしれないのに、なぜ大人になる必要があるんですか?」
押井守監督は「ビューティフルドリーマー」という作品で、文化祭前日、という時間に永遠に閉じ込められた高校生たちを描いた。
それは閉じられた、止まった時間だった。
ラストで、その時間を再び、自らの意志で動かした理由を、その時は明かさなかった。それどころか、本当に動いているのか・・という疑問すら残した。
一貫している押井監督のテーマ、動かない時間と揺らぐ自主性。
それは、ロボットが、主人公の攻殻機動隊で頂点に達した。
ネットのなかに意識がはいり、肉体が意味をなさなくなったとき、時間は、そして自主性は、完全にその役割を、終えた。
そして「スカイクロラ」
押井守監督は、なにも変わっていなかった。
とまった時間と揺らぐ自主性。
変わらずに、しかし、それはさらに進化していった。
永遠の子供、キルドレ。
自らの成長をとめた「ブリキの太鼓」のオスカル。彼のまわりには、愉快でグロテスクな時代があった。
しかし、この映画の彼らのまわりには、なにもなかった。
ただ、淡々とした、日常があった。
読んだ新聞を丹念に畳む少年。
タバコを吸う少年。
そして戦争・・。彼らが行える唯一の変化、それは戦争で死ぬこと。
楽しむこともなく、
ただ相手を破壊して、殺す。
生き残りたいという願望もなく、
さりとて、死にたいという絶望もない。
彼らを変えうるのは、干渉という名の愛
愛は、死を伴う干渉。
愛するというのは、相手に干渉すること。
愛を受け入れるというのは、相手の干渉を喜ぶこと。
この映画で、
押井監督の時間は、確かに少しだけ動いた。
ただ、このまま普通に、正確に、
動き続けるかは、わからない。
でも、それでも、僕や、あなたの、
日常は動く。
刻一刻と死に向って・・。
明日死ぬかもしれないのに、なぜ大人になる必要があるんですか?
大人になる必要はない。
ただ愛を知るのは悪いことじゃない。
干渉されるのも、そんなにいやなことじゃない。
それを知ったからって、かならず大人になれるわけじゃないけど。
愛という名の干渉の日々は
子供の世界ではない。
僕のブログの映画評は、その映画を、どうしても観てほしいという思いで書いている。
せめて読んでいるひとに、観たいなという気持ちが少しでも起こればいいと思って書いている。
でもこの映画に関しては、
別にどちらでもいい・・と思っている。
どうしたって、これは僕の個人的な感情が感じる映画だったから・・。
でも、あなたがもし、自分の生きることに、少し波風を立てたければ・・・