訪問日 平成28年 4月16日
今回訪問したのは、
不破郡垂井町宮代2006にある「朝倉山真禅院」。
「南宮大社」北側の道を道なりに西へ約400m行った場所にあり、
「美濃五山観音霊場」、「美濃七福神大黒天霊場」となっている。
石碑「朝倉山南神宮寺」。
別名の様だ。
「参道」の階段を登ると門がある。
門には、「朝倉山真禅院」とある。
境内に入って直ぐ右側にある「十王堂」。
由緒書の解説板。
朝倉山真禅院(解説板)
当寺は今から一二五〇年前の創建で、開基は行基菩薩自ら本尊阿弥陀如来尊像を彫刻され象背山宮処寺と名付け、本州阿弥陀如来四十八願の霊刹の第三十四番札所とお定めになったのが天平十一年二月(七三九年)であり、その翌年十二月二日には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺及曳常泉へ行幸されています(続日本紀・日本紀略)その後延歴の年勅命により比叡山延暦寺宗祖伝教大師により南宮神社と両部習合され寺号を大神宮寺と改められました。
その功徳は天慶二年(九三九年)の平将門叛乱の時、朱雀天皇の勅命により将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿闍梨助修僧二十人と共に南神宮寺で秘法を修したところ結願の時将門首級到着で、その法験を御嘉賞になり法躰殿の勅額と若干の寺社領を下賜されました。(扶桑略記・帝王編年紀・元享釈書)
(此時十禅師社を造営し弟子十人を社僧とす=十坊設置)
ついで後冷泉天皇の康平二年正月(一〇五九年)には安倍貞任追討の御祈願ありその霊験により法性大菩薩の勅額と若干の寺社領を賜わりました。このように霊験により篤い信仰を得ましたが、文亀元年(一五〇一年)四月の火災で諸堂社灰燼となりましたので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ政房これを諸司に命じて着手、十年後の永正八年(一五一一年)漸く竣工となりました。
くだって、天正十七年十一月十六日(一五八九年)豊臣秀吉より供田として百六十石、寺社堪忍分として二百石の朱印は、家康の代(慶長十四年十月二十日)に四百五石の朱印状となりましたが、慶長五年九月(一六〇〇年)の関ヶ原合戦によって、諸建築は兵火にかかり鳥有に帰しました。
因って南宮権現執行利生院(橋本)永純、本寺の東叡山寛永
寺住職(開基)慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に関与)に再建を嘆願、時の大御所(家康)これを承諾するも戦後とて渉らず、ようやく徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永十九年(一六四二年)九月十一日に再興されましたが、明治初年神仏習合廃止(神仏判然の令)により南宮社執行真禅院秀覚法印二十二堂塔坊舎を統廃合し、村人の絶大な奉仕により此の地に移し朝倉山真禅院となし現在に至っています。
通称世人に朝倉山と親しまれ、時には朝倉寺とも呼ばれています。
山主敬白
一.本地堂(重要文化財)阿弥陀如来四十八願霊刹第三十四番札所
旧南宮大社本地堂、本尊無量寿如来(南宮神社本地仏)
一.三重塔(重要文化財)大日如来、再建寛永十九年九月十一日
一.梵鐘(重要文化財)
一.鐘楼(県重要文化財)再建、寛永十九年九月十一日
一.鉄塔(県重要文化財)
一.観音堂 神護二年七月の創立、元宝珠院
一.薬師堂 延暦十二年開基
一.護摩堂 一.弁才天堂 一.十王堂
本来、「山門」を入ってすぐ正面に、
国指定重要文化財「真禅院本地堂」を見ることができる筈なのだが、
現在保存修理工事の為、残念ながら見ることはできなかった。
平成30年9月末には完了する予定なので、
「南宮大社」に参拝に来た折にでも、寄ってみるかな。(汗)
「本地堂」は見られなかったが、
他にも見所があるので、境内を探索。
先ずは、「本地堂」の南側へ。
「本地堂」南隣にある「護摩堂」。
「釈迦堂」。
「釈迦如来」と「弁財天」が祀られている。
「最勝寺観音堂」。
「薬師堂」。
続いて、北側へ。
国重要文化財の「梵鐘」。
重要文化財 梵鐘(解説板)
昭和三十二年二月十九日国指定
所有・管理者 真禅院
この梵鐘は無銘であるが、奈良時代の属すると推定される
最古のもので、総高一六五センチ、鐘身一二九センチ、口径
一〇〇.七センチである。
上部にある竜頭の長軸線と相対する撞座の中心を結ぶ線が
直角に交わり、撞座の位置が高いなど、古い梵鐘の特徴が見
られる。この梵鐘の撞座は、永い年月の間に撞きつぶされ割
れる恐れがあるため、指定時より国の指導を受け、撞かない
ようにしている。
平成二十八年三月
垂井町教育委員会
恐らく、お馬鹿さんが撞くのだろう。
こんな張り紙がしてあった。(汗)
県重要文化財の「鉄塔」。
中はよく見えなかった。
北条政子が夫 源頼朝の菩提を弔うために寄進したもので、
関ヶ原合戦の際、長宗我部盛親が、
陣営の兵糧の煮炊きに使用したため破損し、
初層と二層の部分だけが現存していると言われている。
布陣した場所から当寺のあった場所は、
県重要文化財 鉄塔(解説板)
昭和三十一年三月二十八日指定
所有・管理者・真禅院
この鉄塔は、室町時代の応永五年八月十日
(一三九八年)河内国の高大路家久による鋳物
で、鉄塔二重塔、高さ百六十五糎、上幅七十
糎、下幅百糎。鉄塔の上層には菩薩六体、下
層には四天王像が鋳付けられている。
垂井町教育委員会
真 禅 院
朝倉山奉山会
「鉄塔」は、元々南宮山の「湖千海神社」一角にあったといわれ、
現在は、そのレプリカがあるらしい。
この神社は、南宮山の中で、唯一参拝していない場所。
今度、参拝して、レプリカを見に行かないと。(笑)
国重要文化財の「三重塔」。
本尊は、大日如来。
個人的には、朝倉山と言えば、この「三重塔」の印象が強いかも。
「空也上人和歌碑」。
「唱ふ連(れ)は 佛も我もなかりけれ
詳細は不明。
こちらの祠も詳細不明。
三面六臂なので、馬頭観音?
「本地堂」の北隣にある垂井町指定有形文化財の「観音堂」。
明治維新までは南宮社奥之院 (宝珠院と号す)と称し、
南宮山の山上にあったため、「高山観音」と通称される。
本尊は、十一面観世音菩薩。
「縁結びの木」。
「御朱印」頂いてきました。
おまけ。
近くで咲いていたボタン桜。