鬼丸のブログ

鬼丸のブログ

気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和5年12月14日

 

今回訪問したのは、

いなべ市藤原町古田1055にある「虎臥山善行寺」。

浄土真宗大谷派の寺院。

往古は甲賀山善行寺と言い、美濃国唯願寺の末寺であった。

慶長年間(1596~1614)に僧了意によって開基され、

後に浄土真宗に改宗した。

元禄3年(1690)4月、山号を虎臥山と改めた。

 

寺院の様子。

 

「山門」付近の様子。

寺院は、東面している。

 

「山門」。

 

「山門」横にある親鸞聖人御像。

 

自然石を用いた「手水鉢」。

 

「本堂」。

寛政9年(1797)7月の建築とされる。

 

「本堂」に吊り下げられている「梵鐘」。

 

「鐘楼」と「梵鐘」。

 

「山門」と「鐘楼」の間にある石碑「頌古田重勝公」と解説板。

 

(碑文)

   古田重勝公を頌える

山濃くして、渓艶かなり古田邨

俊彦斯の郷に誕れ、魂を磨く

風に乗り、浪を超え乱世に生く

凌雲の志、竟に名君となる

(解説)

 古田の里に生まれ育った古田重勝は、

 戦国の世に頭角をあらわし、

 長じて豊臣秀吉に仕え、松坂の城主となる。

 後、徳川家康に仕え、関ヶ原合戦に参戦し

 武勲をあげる。

 慶長十一年(一六〇六)他界する。

 

 

伊勢松坂藩初代藩主である古田重勝は、

『美濃国諸旧記』等によると、古田吉左衛門重則の長男として

美濃国山口城に生まれたとされる。

茶人として有名な古田織部(重然)と同族である。

豊臣秀吉に仕え、小田原征伐、文禄の役等に従軍し、

文禄4年(1595)に伊勢国松坂城を与えられる。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、松坂城に籠城し、

鍋島勝茂らと対峙した。

戦後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され、

伊勢松坂5万5000石の大名となるも、

慶長11年(1606)に江戸にて没した。

訪問日 令和5年12月14日

 

今回訪問したのは、いなべ市藤原町古田にある「佐五地池跡」。

国道365号線の岐阜・三重県境から南へ700m、

左にある脇道(巡見街道)に入り、100m程の位置にある。

 

巡見街道の様子。

 

池跡付近の様子。

ガードレールの外側に案内板がある。

 

案内板。

「大和武尊が手を清めたと伝えられる池」とのこと。

伊吹山の神に敗れ、大和に戻るため、伊勢を通った際のことか。

 

現在池跡は、雑木林となっており、往時の面影は無い。


 

雑木林の入口。

奥には、農機具小屋のような場所がある。

 

すぐ横を流れる川。

これが唯一の名残りか?

訪問日 令和5年12月14日

 

今回訪問したのは、石川県加賀市から三重県四日市市に至る

一般国道である国道365号線の岐阜県と三重県の境。

 

岐阜県側から見た国道365号線の県境。

 

県境を示す標柱。

大垣市上石津町といなべ市藤原町の境となる。

 

岐阜県内の国道365号線の終点を示す標柱。

 

三重県内の国道365号線の始点を示す表示板。

 

石碑「従是南三重縣***」。

側面には、「伊勢國員辨郡立田村」とある。

訪問日 令和5年12月11日

 

今回訪問したのは、

大垣市上石津町宮365にある「金剛山観音寺」。

昭和45年に焼失した後、移設再建された場所と思われるが、

現在は一部施設を除き、寺院の面影は無い。

 

寺院付近の様子。

 

入口の階段跡。

 

「鐘楼」。

 

「梵鐘」には、「金剛山観音禅寺」の文字が。

 

「鬼瓦」。

 

「鐘楼」横に建つ石碑。

門前によくあるやつです。


 

寺院跡南側にある御堂。

 

寺院跡西側にある墓地への階段。

訪問日 令和5年12月11日

 

続き。

 

「旗本北高木家墓石群」から、更に奥へと進む。

 

ほんの数分で、標柱と解説板が現れる。

 

解説板。

 

(解説文)

    観音寺経塚

   県 史 跡

   〔指定年月日〕 昭和五十一年九月三日

     碑 文

       願主慶覚
         文治五季 巳酉
  如法経  十月十四日 庚子
       同心多良郷
       緇素貴賤

 

観音寺縁記によると、

 文治五年十月十四日の造立で、「天台宗

 の時、住僧慶覚といえる者、平安の末期

 天下兵乱の砌、戦死者の耳をここに埋み、

 供養のため法華経一部を一字一石に書与

 して、此塚に埋める、経塚または耳塚と

 呼べり」と記され、この山は、法華経護法神

 出現の霊地とされている。

 かつてこの山麓に、観音寺があったが、

 昭和四十五年に焼失し、寺に宮に再建された。

         大垣市教育委員会

 

 

塚を西側から見た様子。

道が一周している。

 

解説板横の階段を登る。

 

塚の登り口。

 

急坂を登り、塚の頂上へ。

頂上は、概ね平坦となっている。

 

中央付近に石碑がある。

 

石碑の後ろにある四等三角点。

 

よく見掛ける有志による山頂表示。

一応、ここは観音寺山(標高179m)というらしい。

 

山頂の西側等には、一段下がった平場があり、

「腰曲輪跡」に見えてしまう。

位置的には、「城ヶ平城跡」の見張台かな?

でも流石に違うか。