夜になり、奉行は見回りを開始した。
昼過ぎ辺りから、奉行は体のだるさを感じていた。
こんな時に風邪を引くなどと弛んでいると、奉行は自責した。
外に出てみると、門番を始め、庭で警護をしていた武士達が倒れているではないか。
慌てて、人を呼んだが誰も来なかった。
仕方なく奉行は、倒れている武士の一人を見たが、脈があり息もしていた。
どんなに揺り起こしても、武士は目を覚ますことは無かった。
どうしてこんな事になったのか、奉行は辺りを見渡した。
その時に、奉行のみぞおちに強い衝撃が起こった。
奉行はそのまま気を失ってしまった。
側には、黒装束を着て背中に刀を背負っている清吉が立っていた。
今朝も奉行所に忍び込み、水瓶に慢性の眠り薬を入れていたのであった。
奉行は、その眠り薬が余り効かなかった様である。
用心の為、清吉は奉行から他の者まで縛った。
それから、急ぎ奉行所の中へ潜入した。
牢を見張っている者達も、眠り薬が効いていて、床に倒れていた。
その者達も縛ると、牢屋へ向かった。
牢には、茶店の女将・おとき、娘のおまさ、娘婿の蔵次がいた。
3人とも、眠り薬で眠っていた。
清吉は、おとき達に、目覚ましの薬が入った水を飲ませた。
直ぐに効果が表れ、3人は目を覚ました。
初め3人は黒装束姿の清吉に驚いたが、直ぐにおときとおまさは、蔵次が清吉の事を大杉に言ってしまったことを詫びた。
蔵次もひれ伏して、自分のしたことを謝罪した。
清吉は、詫びる必要は無いことと、自分は蔵次には悪い思いはしていないので、どうか蔵次を許して欲しいと、おときとおまさにそう答えた。
そして、清吉は3人を牢から出して、安全な場所へ避難させると言った。
とまどう3人に、清吉は必ず茶店は再開出来るから、僅かな期間だけ避難して欲しいことを説得した。
清吉の言葉を信じる3人は、説得に応じて、清吉の後に続いて牢を出た。
脇目も振らずに3人と清吉は、裏から奉行所を出た。
すると、誰かがやってくる気配がした。
急いで脇の茂みに3人を隠し、清吉は闇に紛れ様子を伺った。
やって来たのは、大杉の嫡男・近正と僧侶の田島敬之助であった。
田島はまだ藩から出ていないのかと、清吉はこっそり舌打ちした。
しかし次の瞬間、近正が発した言葉に清吉は耳を疑った。
おとき親子を、牢から出すと言うのだ。
それも出した後は、謝罪の金を出し、店へ返すとも言ったのだ。
それでは、父上の大杉左近に叱責されるのではと田島は心配そうに言うと、近正は武士にあるまじき行為を行っているのは父親の方であり、それを正すために息子の自分が行うのだと言った。
彼らの会話を聞いて、清吉は近正なら3人を預けることが出来ると、直感で判断した。
そして、近正の前に清吉は姿を現した。
驚いた田島は、この男が7年前のお家騒動を探っていた隠密であると近正に伝えた。
何処の隠密かと尋ねる近正に、清吉は今は答える暇は無く、これから藤丸に身の危険が迫っている事を打ち明けた。
衝撃を受ける近正であったが、これからどうするのかと聞くと、清吉はこれから藤丸の宿泊している藩の別邸へ向かうと答えた。
自分も別邸へ向かうと近正は言ったが、清吉は事が終わるまで、おとき親子を安全な場所へ匿って欲しいと頼んだ。
その時、茂みから出てきたおとき親子は、清吉はとても良い人物なので、信じて欲しいとひれ伏して願い出た。
おときの店馴染み客であり、3人を良く知る近正は、そこまでおとき達が言うのならば、清吉の言う通りにすると近正は言い、おとき親子を預かることにした。
深く礼を言う清吉であった。
流石は、八重様の息子であると思った。
藤丸の危機を聞いた田島は、今は僧侶になっているが、藤千代を心ならずも暗殺してしまった罪を償う為に、清吉と別邸へ向かうと言い出した。
近正は、これを許した。
清吉はそれなら後から来いと田島に言って、別邸へ向かった。
瞬く間の内に、皆の前から清吉の姿は見えなくなってしまった。
田島も、急ぎ後を追った。