長崎市の東南部にある大きな公園に行ってみました。市のホームページには「高齢者や身障者に配慮したやさしい公園として整備されました」とありますが……
実際にはバス停を降りて公園に入ると、ひたすら坂道と階段を上ること5分。雨に濡れた路面は、下手に落ち葉を踏みつけると、さるねこ父ですら滑って転びそうな危うさです。だれになにを配慮したつもりなのか、設計者を小一時間問い詰めたい気分です。
誰もいない野原にたどりつきました。長崎には珍しく地平線が見える……わけではなく、山の頂上を平らに整地してあるのです。年に1度開かれるイベントでこの公園はひとが集まりますが、それ以外は犬の散歩のひととウォーキングのひとと広場で子どもを遊ばせる家族連れがたまにやってくる程度のようです。なんせ市街地からバスは1時間に1本、駐車場はせいぜい30台といったところですから。
折からの黄砂にかすんでいますが、長崎港も見下ろせます。
で、この公園の駐車場に、何匹かのねこたちが暮らしています。決して「のんびりと」ではなく、「どうにかこうにか」暮らしているのです。
集められているごみは、公園の落ち葉などで、残飯類はありません。この広い公園は「ごみは持ち帰ってもらう」という原則で運営されています。山の頂上ですから、周囲に人家はありません。さきほどの坂道と階段を5分下れば、バス停のそばの人家にたどりつきますが、ここでどんなにごみ袋をあさっても、ごはんにはたどりつかない。
だからどの子も、決して毛並みはよくありません。
そして眼病持ち・皮膚病持ちが多い。
客待ちをするタクシーの運転手さんやたまに訪れる家族連れがきまぐれに魚肉ソーセージなどをくれることもあるようです。ここにいたねこは全部で9匹。魚肉ソーセージ2本を奪い合いで食べて、ビニールの包みまで舐めて、どうにかしのぐのでしょうか。
……と、そんな感傷も打ち消すように、鼻の頭を掻くキジしろ。
この三毛は、何度か子ねこを産んだことがあるのかもしれません。でも、子ねこの姿はほとんど見ない。もうそろそろ街は子ねこにあふれる時期ですが──それはそれで問題ですが──、その気配はまだない。
同じく、餌もないのに、点々と地面を歩くカラス。カラスが生まれて間もない子ねこをさらっていくのは決して珍しいことではありません。ここもそうなのかもしれないし、また別の理由かもしれない。母ねこに子どもを育てる余裕、さらには子どもを産む余裕すらないのかもしれない。とにかく、子ねこはいませんでした。
だれかが忘れたタオルの上でくつろいでいたキジは、この公園の中ではいちばん恵まれた毛づやをしていました。
この子たちの命をつないでいるのは、おそらく昼間のタクシー運転手さんと、朝晩に訪れるであろう餌やりさんだと思います。ただ、決して訪れやすい場所ではないので、その頻度も分量も、この子たちがぬくぬくのんびり暮らすには十分ではないのでしょう。
では、もっと餌やりさんを増やせばよいのか? ──それは違うと思います。栄養状態が上がれば、メスねこは子ねこを産み育てやすくなります。避妊去勢が施されていないねこが増えるだけ。環境要因が許すぎりぎりいっぱいまで増えて、いつまでもかつかつでねこたちは暮らしていくことになります。
そもそも、ここにねこがいること自体、ヘンなのです。誰かが捨てたのでなければ、ここにこんなにねこがいるはずがない。市街地のねこ(外ねこ・ノラネコ)は、基本的に人間に頼らなければ生きていけない。だだっぴろい公園の駐車場の一角にだけねこがいることは、それを如実に物語ります。「適当に、虫やらカエルやら食べてるんじゃないの?」という楽観的な見方は、おそらく正しくない。人間に捨てられて、それでもなお、人間に頼って生きているのが、このねこたちです。
こんな風景は、実は長崎のどこでもありふれたものです。子ねこのうちに誰かに捨てられて、そのほとんどはカラスにやられたり、十分な栄養が摂れずに病気でなくなったりして、ようやく生き延びても痩せこけてあちこちに病気を抱え、短い一生を終える。誰のせいでそんなことになったのか? それはわたしたち人間のせいです。餌をやればそれで解決するのか? それではただ増えるだけで根本的な解決にはなりません。
「捨てる」ことをやめないと。