「精神病者」と「精神障害者」について(キーサンともだちMLから) | キーサン日記

「精神病者」と「精神障害者」について(キーサンともだちMLから)

東京のキムさんの了解を得て、「精神病者」と「精神障害者」の呼称についてキーサンともだちMLでのやりとりから紹介します。


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東京のキムさんから 《精神病、「精神病」、精神障害》


 きのう、「江戸川区の福祉を考える会」の例会が久しぶりにあり、MAさん、MOさんと参加した。討論の中で貴重だったのは、脳性マヒの身体障害者であるTさんの意見である。
 Tさんは、しんまつに対して、しんまつが精神病者の患者会となのっているのは、病気だからなおる、という含意がこめられているのではないか。それに対し、障害というのは、固定化したもので、直らないことが前提である。私は障害者であることにこだわっており、私の夫はマヒが有って常時服薬しているが、病者とはおもっていない、とおっしゃっていました。
 これにたいし、僕は、僕たちは社会復帰にも、精神病が治るという幻想をふりまくのにも反対であること、しかし、日常的に医療を必要としており、ましな状態をのぞんではいるし、それゆえ、悪徳精神医療にも反対していることなどをのべました。
 また、MOさんからは、精神病の偏見や固定観念との区別から、「精神病」という表現を使う人が多いが、そのような表現は、精神病の偏見そのものをひとまずうけいれ、かつたたかう、という立場からは、超えられるべき、というような意見もだされました。「精神病」と僕たちのような精神病というつかいかたは、あまり、言葉の問題にこだわってもしょうがないから、程度の、消極的な意味で長らく使ってきたのですが、いろいろかんがえさせられる討論でした。
 また、精神障害者という表現も、このような場では多く必要であることも事実です。

 最近障害者を障がい者と表現する人も増えています。また,精神医療の分野では言い換えはもっと盛んで、分裂病は統合失調症になりましたし、(ぼくは分裂病といっていますが)、精神病院は精神科病院といわれています。原則は、当事者の意見にもとづかない「配慮」は偽善だということです。キチガイ、キーサンと居直る精神はやはり大事だと思います。


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皿澤から 《精神病者、「精神病」者、精神障害者などの言葉について》


 東京のキムさんが、おもしろい話題を提供してくださいました。

 

 この言葉の使い方には、かなり奥の深い問題があって、かなり難しい問題だと想います。また、これが絶対に正しいという答えはないように感じます。

 

 僕自身の感覚から言えば、「精神障害者」という言葉は使いたくありません。また、使う場合には状況に応じて適切に使うようにかなり注意して使うようにしています。
 というのは、「精神病者」と「精神障害者」では外延が(その言葉の指し示している範囲が)大きく異なるからです。「精神病者」⊂「精神障害者」であり、「精神病」は「精神障害」の一部分でしかありません。「精神病」はかなり輪郭のはっきりした外延を持っており、「分裂病」・「躁鬱病」・「うつ病」・「非定型精神病」にほぼ限定されます。これらは、確かに「障害」として捉えれば、「精神障害」には違いありませんが、「精神障害」には他の一般の精神疾患も含まれます。例えば、PTSD・多重人格・アディクション(アルコール・薬物・仕事・買い物・人間関係・・・)・神経症(神経性抑うつも含む)・対人恐怖・社会不安・不眠症・発達障害・自閉症・知的障害・てんかん・(僕は認めませんが)「人格障害」・・・などなどキリがありません。また、AC=「アダルト・チルドレン」が含まれることもあります。

 

 もうお分かりかと想いますが、僕ら精神病者が病識を持ち、患者会に集うとき、「精神病」と非「精神病」は基本的に違うと感じると想います。それは、本質的には「病」者と「健常」者の違いだと言えないでしょうか。いまの僕には基本的な感覚としてそういう違いがあります。
 つまり、「精神病者」のノリと非「精神病者」のノリの違いと言いますか、かなり大きな溝がそのあいだに横たわっているように経験的に感じます。端的に言えば、非「精神病者」である「精神障害者」は、症状としては重篤な症状を持っていても、基本的には我々が「健常者性」と呼ぶ感覚を持っており、医療的なケアが必要だとしても、僕ら「精神病者」のように「狂気」に支配されたり、「狂気」を持っていたりはしないということです。ここが僕らの「キーサン性」を持っているか、いないかに大きく関わっていると想います。そして、もう一つ付け加えるならば、「精神病」というのは精神症状だけでなく、身体症状・気分の症状・思考の症状など多彩な症状に襲われ、健常者的な生活が出来なくなるということです。

 

 ですから、我々があくまで「精神病者の患者会」というのは、そこに自分たちのキーサン性というものを自覚し肯定し覚醒する意味が込められているのだと想います。そして、そこから僕らの理屈ではない「反社会復帰」という感覚・考え方・生き方が生まれてきます。
 

 「精神病者」というと「障害」ではなく「病気(病者)」だから、治る可能性があるというのは大きな誤解です。確かに「身体障害者」にはそういう言葉に対する「こだわり」があるのだと想いますが、「精神病者」には次元の異なる言葉に対する「こだわり」があるのです。だから、僕たちは「精神障害者」という非常に曖昧なキーサン性の希薄な、おおざっぱな括り方をされたくはないという感覚、つまり「精神障害者」と呼ばれてしまうことへの大きな違和感を持たざるを得ないのです。

 

 以上長くなりましたが、精神病者・「精神病」者、病者・「病」者の違いと歴史的な背景については、また機会があるときに書きたいと想います。


      皿澤 剛