萩往還 佐々並から萩へ その拾参 ~町田梅之進自刃の地と一升谷の石畳~ | 萩往還を歩く

萩往還を歩く

幕末維新の志士たちが駆け抜けた歴史の道「萩往還」は城下町萩と瀬戸内の港三田尻とを結ぶ街道であります。さあ、今から、萩往還とその周辺を歩いてみましょう。きっと新たな発見があるはずですよ。

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紅葉が美しい季節であります。


さてさて、あれから全然、前へ進んでおりませんが、

萩往還 佐々並から萩への旅も、今日で13回目のお話であります。



それでは皆さま、しばらくお付合いの程を。


根の迫橋を渡りますと、道は少し広くなります。
しばらくは、明木川支流の茶屋川を左手に、同じような景色が続きます。


萩往還を歩く

「う~む・・・。実に良い所であるなあ・・・。静かだ・・・。そして空気もうまい。

嗚呼、なんて贅沢な事なのだらう・・・!嗚呼、すばらしきこの自然よ!」


僕と好青年E氏は、次なる目的地であります、

明木市へ向かってひたすらこの道を下るのでありました。


しばらく行くと、またまた石畳を見ることが出来ま~す。

(じゃけど、ここの石畳の写真が、ないんよね~。)


そしてまた、ここからしばらく行きますと、

「町田梅之進自刃の地」がございます。

ここは、根の迫橋より、約1.6km、


明木市からは、約1kmの地点であります。


萩往還を歩く

町田梅之進は萩藩士で、明治9年(1876)10月、

前原一誠を首領とする萩の乱では、前原党に属し、

乱に加わりました。


そのため、その後は、自宅禁固10年の刑に処せられます。


そして、翌年10年。西郷隆盛が挙兵した時に、

同士数人と謀り、山口県庁を襲い、その後は下関に出て、

西郷軍に合流しようとしました。


しかし、同士の中に密告した者がいた為、

5月30日、町田は、萩警察に拘束されます。


そしてその夜、今度は町田党が警察を襲い、

町田を奪い、山口へ向かおうとしました。

その数は、およそ200人でありました。


彼らは萩の大屋を本陣とし、戦備を整えます。


そして、大区扱所の官金約1400円、

協同会社の米倉を襲いまして、翌日は明木に移り、

豪農、滝口氏の家に放火します。


一方、県令 関口隆吉は、小倉から陸軍の派遣を要求。

また、警察や、県庁職員の中から、実戦の経験者を選抜し、

萩へと送りました。


そして、5月31日。町田党と県庁軍は、佐々並で遭遇し、

対峙します。


それから、翌日の6月1日には、県庁軍が町田党を追い詰め、

明木方面へと向かいます。


そして、ここ一升谷に至る途中、町田は県庁軍の勧業課、

秋良貞臣に抜刀して突撃します。


しかし町田は、秋良のピストルでこめかみを撃たれました。


そして、ここまで退きましたが、この地にて、自刃したのであります。


半円形の碑には、「志士 町田梅之進 自刃の地

明治十年六月一日未明 刀を逆立て喉をついて自決・・・」

とあります。


明治9年12月3日。前原一誠が斬に処せられ、一件落着かと思われた

「萩の乱」の火も、完全に消えてはいませんでした。


前原の遺志を継ぎ、もうひとつの維新を実現させようとし、

命を懸けて戦った男、町田梅之進。


享年30歳でありました。



それでは、次回へつづきます。


                                       その拾四へつづく