東北電力をめぐる闇―白洲次郎について度々紹介(ただの転載ですが)してきましたが
今日も。

わたしたちはこうした腐臭に鼻をつまんで生きてきたのか・・・

さてはてメモ帳 Imagiん&Thinkさん http://satehate.exblog.jp/9332877/
の文字部分のみ転載させていただきます:
元記事は写真つきですので、元記事をご覧ください
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次項は、スティムソンとグルーに操られた"ヨハンセン・グループ"の「プリンシプルのない男」の物語を書くことにしよう。彼らをなぜスティムソンは必要としたのか? 


それは、日本においても原爆工作が必要であったからに他ならなかったからだ。

プリンシプルのない男・白洲次郎の物語

前項の中で、私はグルーのもう一つの顔について触れた。その中でグルーが太平洋戦争前から駐日大使を勤めた約十年間に、吉田茂、樺山愛輔らの間に、尋常ならざる交流を結んでいたことを書いた。この二人のルートで、グルーは御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受け取り、アメリカ国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書『滞日十年』に書かれている。




このグループは"ヨハンセン・グループ"といわれていたこともすでに書いた。

ここでは一人の男を中心に、プリンシプルのない男たちの物語について書こうと思う。日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。  

白洲次郎という男がいた。その男の書いた随筆や座談記録などが一冊にまとめられて、世に出た。その本の題名は『プリンシプルのない日本』(二〇〇六年)という。


白洲次郎の経歴が載っている。

一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。

ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。

ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。

青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。





当時白洲が最も信頼していた先輩が「吉田というガンバリスト」であった。吉田が昭和十一年にロンドンの大使館に赴任する前から岳父との縁で白洲は「吉田のおじさん」と呼んで親しかったが、「大人の付合い」が始まったのはロンドン時代からだった。セール商会、日本水産の仕事で英国に渡った際の彼の常宿は日本大使館となった。

『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。



一九三七年(昭和一二年)三五歳三月、日本食糧工業(同月、共同漁業に吸収合併され、後に日本水産株式会社)の取締役(後に取締役外地部部長)に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く」とある。

前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。

『有馬頼寧日記(五)昭和十七年~昭和二十年』(二〇〇三年)に日水時代の白洲の姿が描かれている。


有馬頼寧は日水の社長であった。白洲について記述したところのみを記す。

〔昭和十八年〕八月十一日(水)晴
専務も白洲君の事を心配して居た。私も先日来親米的な言辞が気になって居た。他へ移るのが本人の為めによいと思ふ。
〔昭和十九年〕二月二十二日(火)晴
出社して西村専務に面会、庶務課長と調査課長と話す。白洲君は今のうちにやめたらといふ。此人のいふことはよくわからず
〔昭和十九年〕二月二十八日(月)晴
白洲君より空襲の危険迫った話あり。副社長、専務と明日の支社長会議につき話す。海軍の戦果発表あり。今明日空襲のうはさあり。
〔昭和十九年〕三月十一日(土)晴
白洲君相変らず面白くない話ばかり。会社といふものはいやなものである。
〔昭和十九年〕六月二十一日(水)晴
白洲君と暫く話す。此人は何かの役に立つと思ふ。
〔昭和十九年〕七月五日(水)雨
あいかわらず
午後二時半より理事会あり。白洲君不相変出席せず。
〔昭和十九年〕七月二十四日(月)晴
午後は白洲君から又いろいろの話をきく。
〔昭和十九年〕八月二十四日(水)晴
午後は、白洲君、日水梅渓氏と暫く話す。ルーマニアが停戦協定を結んだ由、小笠原が大挙襲はれたとの事。
〔昭和十九年〕九月九日(土)雨
白洲君の話に、大島大使が独乙ももはや一ヶ月位だとの事。英国では灯火管制を解いたといふ。どこ迄も米英的な人。
〔昭和十九年〕九月二十六日(火)雨
それに相変らず白洲君に話し込まれる。どうして此人は日本の敗ける事を前提としてのみ話をするのであろう。
〔昭和十九年〕十月四日(水)雨
白洲といふ人は仕方のない人で、帝水をつぶしてしまへといふ。いやならやめろといふてやる。
〔昭和十九年〕十一月二十一日(火)雨
白洲君が又変な聞き込みをやっていた。


『白洲次郎の流儀』の中の「白洲次郎年譜」には「一九四三年(昭和一八年)四一歳五月一一日、鶴川村に転居。〈水田が五反歩、畑が三反歩。典型的な零細農〉を営む。戦争中はこうして鶴川村の農民たちとまじわり、河上徹太郎や今日出海といった文士たちとの交歓を楽しんだ。〔中略〕〈中央の政治に目を光らせている。遠くから眺めているために渦中にある政治家には見えないことがよくわかる。そして、いざ鎌倉という時は、中央へ出て行って、彼らの姿勢を正す〉と書かれている。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。

柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。


「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二~三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」
これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。
もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか……。

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。

徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある。


一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。

徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。

クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。
「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」



「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。

引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。

FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。


白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。

私は前著『日本のいちばん醜い日』でヨハンセン・グループについて詳述した。


その中で、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記--天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報がその真実性は私には判りませんが--入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐しいものでないと信じられておりました。

後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。


原爆の秘密 [国外編] 殺人兵器と狂気の錬金術  鬼塚英昭 第六章 「無条件降伏せよ」という奸計 p240-249 より



参考

白洲次郎 総合インデックス
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/cat_10021005.html

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原爆ホロコーストへの道を整えたのは誰だったのか?