大御宝(おおみたからは)、当時の漢字で書くと「大御百姓」 (1) | 産経新聞を応援する会

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ねずさんの ひとりごと様より転載

壇ノ浦の戦いは、ご存知の通り現在の山口県下関市で行われた、源平合戦最後の戦いです。
この戦いで、栄華を誇った平家は滅亡に至りました。
このときの物語は、ねずブロの過去記事「源平桃と壇ノ浦の戦い」でご紹介させていただいているのですが、折角ですのでちょっと引用いたしますと・・・

治承4(1180)年に源頼朝が平家打倒の兵をあげてから5年、屋島の戦いで敗退した平家一門は、長門国引島(山口県下関市)まで後退し、そこで源氏に最後の決戦を挑みます。
源氏と平家は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。
平家は、弓矢を用いて離れて敵を討つという戦い方を得意としました。
これは特に水上戦で有効な戦い方です。大量の矢を射かけ、敵を粉砕するわけです。
対する源氏は、馬を多用した陸上での接近戦が得意です。
実は、こうした戦闘形態の違いは、近代戦の銃器を用いた陸戦にも似ています。
艦砲射撃やら空爆やらで、あめあられとばかり砲弾を撃ち込む米軍と、肉薄して接近戦で敵を粉砕するという日本との違いみたいなもの、とお考えいただくとわかりやすいかもしれません。
そしてだいぶ春めいてきた新暦の4月25日、平家一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべて義経率いる源氏を待ち受けたわけです。
静かに夜が明けました。
午前8時、いよいよ戦いの火ぶたが切って落されます。
源氏は潮の流れと逆ですから、船の中で一定の人数は常に櫓を漕ぎます。
平家は、潮の流れに乗っていますから、櫓を漕がなくても舵だけで、船は前に進みます。
潮の流れに乗る平家は、流れに乗って源氏の船に迫り、盛んに矢を射かけます。
なにせ漕ぎ手が不要です。全軍で、総力をあげて矢を射続ける。
一方、潮の流れに逆らう源氏の船は、平氏の射る矢の前に、敵に近づくことさえできません。
船を散開させ、なんとか矢から逃げようとする源氏、密集した船で次々と矢を射かける平氏。
こうして正午頃までに源氏は、あわや敗退というところまで追いつめられていきます。
ところが、ここで潮の流れがとまる。
追いつめられていた源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。
義経が、平家の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。
(これについては異説もありますが、それについては後述します)
堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。
ところが開戦から4時間、敵である平氏によってさんざんやっつけられ、追い落とされ、陣を乱して敗退していた源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのなんだのと言ってられない。
義経の命に従い、平家の船の漕ぎ手を徹底して射抜きます。
気の強い源氏の武将たちに、そこまでの決断をさせるために、あえて義経は流れに逆らっての攻撃命令を朝の8時に下したといえるかもしれません。
平家は、狭い海峡に無数の船を密集させています。
そこに源氏の矢が、漕ぎ手を狙って射かけられたわけです。
こうなると船の漕ぎ手を失った平家の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。
密集している平家の船団は、大混乱に陥いってしまう。
そこへこんどは、潮の流れが、源氏側から平家側へと変ります。
まさに潮目が変わったわけです。
潮の流れというのは、一見したところあまりピンとこないものですが、まるで川の流れのように勢いの強いものです。まして狭い海峡の中となれば、なおのことです。
勢いに乗った源氏は、平家一門の船に源氏の船を突撃させる。
平家一門は、ここまで約4時間、矢を射っぱなしだったのです。
すでに残りの矢は乏しい。
それを見込んでの源氏の猛進です。
船が近づき接近戦になれば、もともと接近戦が得意な源氏武者の独占場です。
離れて矢を射かける戦い方に慣れた平氏は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもない。
平家の船は次々と奪われ、ついに平家一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ります。
実は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語では、このあたりから、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。
迫り来る敵を前にした平教経(たいらの のりつね)は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。
そこに源氏の兵が迫って来る。
問題はここからです。
平教経(のりつね)は、今日を最後と肚に決めます。
教経(のりつね)は、着ていた赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧・・・豪華ですね・・・に厳物作りの大太刀を腰にして、白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘をはずすと、迫って来る源氏の兵たちの中になだれ込み、次々と敵をなぎ倒していきます。
その鬼気迫る壮絶な戦いぶりを見た、総大将の平知盛(たいらのとももり)は、ここで教経(のりつね)に使者をつかわすのです。
「教経殿、あまり罪を作りなさるな。そんなことをしても相手は立派な敵だろうか」
実は、平家物語の壇ノ浦の戦いで、ここがいちばん大事なとこです。
猛烈な戦いの最中に、平知盛は、
「雑兵を殺すことが、武将として立派な戦いでしょうか?」と疑問を投げかけているのです。

これがどういうことかというと、当時の日本は平安律令体制の国家です。
そして「雑兵」というのは、武者ではありません。
武者に従ってついてきている従者たちであり、故郷に帰ればお百姓さんたちです。
そして我が国の律令体制では、お百姓さんたちは、大御宝(おおみたから)です。
その大御宝(おおみたからは)、当時の漢字で書くと「大御百姓」です。
つまり、目の前にいる雑兵たちは、民百姓であり、天皇の宝なのだという認識が、まずあるのです。
そして武門の家というものは、天皇のもとでその大御宝を護るために存在する
その武門の家の長が、たとえ敵といっても、雑兵たちの命を奪って良いものか、と、平知盛は、こう言っているわけです。