人気ブログランキングへ
ランキングに参加しています。まず初めに何卒クリックをお願い致します。


 こんばんは。

 今日は、ツイッターで新無効論への批判を繰り広げておられる上念司氏への反論をお送り致します。





 まず採り上げるのはこちらのツイートです。

 上念氏は新無効論者がこの質問から逃げ回っていると言っておられます。全くの間違いであり、私もこの場にてこの質問にお答え致します。

 答え:國體は連続している。従って、國體に関わる規範(不文の法)を成文化した大日本帝国憲法もまた連続して現存している。國體に反する理念である左翼思想に基づく『日本国憲法』は憲法典としては無効である。

 これが正解です。

 私の他の真正護憲論者(新無効論者)の皆様も、言い回しや言葉遣いはそれぞれ違うものの、私と同じ答えを何度も上念氏に対してしているにも関わらず、上念氏はそれを「逃げ回る」と表現しておられます。

 さて、なぜ上念氏はこのような不当な評価をされるのか、上念氏の憲法観と思考回路を検証していきましょう。

 まず、上念氏の憲法観をみていきます。


1.国民主権に基づく憲法観




 ここには、注目すべき発言があります。すなわち、「その無効な憲法が、なぜ憲法として認められてしまっているのか?」というくだりです。

 このブログでも何度も解説してきた通り、憲法とはその本来の姿は國體を規律する不文の法であって、それをあえて成文化したものが憲法典(成文憲法)です。

 上念氏がここで言っておられる「憲法」とは憲法典としての『日本国憲法』を指していると思われます。

 さて、憲法典が憲法典たり得るかは、偏にそれが不文憲法を成文化したものであるかどうか、この一点に尽きます。

 この点、国民主権・基本的人権・平等主義などの左翼思想を条文化した『日本国憲法』は我が國の國體と不文憲法に明白に反するどころか、これを否定、破壊するものであり、憲法典としては認められない、すなわち無効であります。

 然るに、上念氏は、「それが憲法として認められてしまっている」ということに、『日本国憲法』が憲法典たることのポイントを置いているようです。

 すなわち、憲法典とは、国民が認めることによって憲法典たり得るのだ、という発想です。これは完全な誤りです。憲法典が憲法典たり得るかどうかは、それが不文憲法を成文化したか否かに尽きるのであって、「国民の承認」などは欠片さえも必要ありません

 上念氏の憲法観は、まさしく「国民主権」の発想です。

 そして、それは、このような発言となって現れています。



『日本国憲法』が果たして憲法典であるのかは、先ほどの憲法典の定義より明らかです。事実として、『日本国憲法』という名称の法典が存在することと、その『日本国憲法』が憲法典であること、は全く別の問題ですが、上念氏はこの二つの論点を混同されています。

 事実として『日本国憲法』という名称の法典が存在するからといって、憲法学上、それが憲法典であるとは必ずしもいえません。

 にもかかわらず、上念氏はこの論点についての検討もないままに、ただひたすらに『日本国憲法』は憲法典であるとの論を主張されているのです。

 この発想はさらに、このような発言となります。



 非常に問題の多いツイートです。上念氏は「自主憲法を制定すべきという点は一致している」といわれますが、これは間違いです。上念氏のいう自主憲法とは、このような国民主権的発想に基づいたものであって、それは必然的に我が國の國體を規律する不文憲法から逸脱した、國體破壊をもたらすものになりかねないゆえに、我々は危惧しているのです。

 よって、この点の一致など寸毫もありません

 正統な憲法典(不文憲法を成文化した憲法典)ではなく、そもそも憲法規範ならざるものを元にして、国民主権的発想で作るものなどが憲法典であるはずはないではありませんか。

 このような「改憲」は保守思想の立場からは、断じて認められないものです。

 「改正」と「無効」は単なる言葉の問題ではありません。改正とはその「改正の限界」を超えない範囲内でなされるものであって、その基本理念から逸脱した改正はできません。

 上念氏が言われるように、『日本国憲法』が憲法典であるとするならば、その基本理念たる国民主権・基本的人権・平等主義などの左翼思想に基づく規定の改正は、改正の限界を超えるものであり、できないのです。



2.上念氏の思考回路


 さて、一番初めに引用したツイートに戻ります。



 さて、この問いに対し、①または②と答えるならば、上念氏は次のように言われます。
 


 さて、私や他の真正護憲論者(新無効論者)の方々は、上念氏の意図するような①または②の答えをしませんでした。

 しかし、上念氏はこの問いの答えには、①または②しかないと思っておられるようです

 では、なぜ上念氏がこの問いには①または②の答えしかないと考えられたのか、その背後にある憲法観をみていきます。

 新無効論によれば、國體は一貫して現在も連続しています。しかし、①になるかというと、もちろん、なりません。 

 上念氏の「帝国憲法から日本国憲法へ國體の連続性は?」という問いには、2つの論点が含まれています。

 すなわち、1、國體と成文憲法(憲法典)の関係 2、『日本国憲法』という法典の法的性質、すなわち『日本国憲法』が憲法規範たり得るか(= 憲法典として有効かどうか)の問題です。

 まず、上念氏はツイートで、一貫して國體の連続性を主張しておられます。この点は正当です。

 そして、國體の連続性があるならば、すなわち國體を規律する不文憲法もまた、一貫して現在も存在していることになります。

 ということは、とりもなおさず、その不文憲法を成文化した大日本帝国憲法もまた、一貫して現在も存在していることになるではありませんか。

 いや、それは違う、大日本帝国憲法は改正され、日本国憲法となったのだ、だから大日本帝国憲法と日本国憲法には連続性があり、國體もまた連続しているのだ、と上念氏は言われるかもしれません。

 しかし、論点1において、成文憲法とは國體に関わる規範(不文憲法)を成文化したものであること、という定義に基づけば、

 論点2において、『日本国憲法』は國體に関わる規範(不文憲法)を成文化したものではなく、憲法規範たり得ない(= 憲法典としては無効である)という結論になるのです。

 國體が連続していることと、形式上「~憲法」という憲法典の体裁を採っている法典同士の間に連続性があることとは、全く別個の問題です。

 にもかかわらず、上念氏はこのように、「帝国憲法から日本国憲法へ國體の連続性は?」という、全く異なる問題を、混同して論じておられます。

 これは意図的なものなのか、それとも上念氏は経済評論家でいらっしゃるので、法律学においては素人、門外漢でいらっしゃることから来たものなのかは分かりませんが、いずれにせよ、これは問いの立て方が間違っています。

 これでは、正しく答えようとするならば①も②も選ぶことはできません。

 しかし、①も②も選ぶことなく、正しい答えをする新無効論者に対しては、上念氏はこのような発言をされます。

 

 むろん、一人一人の答え方、論の立て方にはいろいろあるでしょうから一概には言えないでしょう。しかし、私がしたような答えを真摯にしたのにもかかわらず、上念氏はそれが自分が求めた①または②の答えではないことを理由に、「逃げ回っている」と評されます。

 たとえば、このようなツイートにもそれが端的に現れています。



 國體の連続性が「ない」→「やっぱりある」と新無効論者が主張した、と上念氏が評されるのは、やはり上念氏が論点を峻別することなく、まぜこぜにしているので「ない」と「ある」が同居しているように勝手に思っておられるだけです。

 真摯に答えているのに、それを「逃げ回る」と評されるのは、意図的なものか、それとも上念氏の理解力の問題でしょう。いずれにせよ我々の与り知るところではありません。

 さて、「上念司氏への新無効論批判への反論」は今後も随時、続編をお送りして参ります。何卒ご期待下さい。