私は正直少しムッとしてしまいました。ストレートな表現でしたが、それは誠実にしたいという気持ちの表れだということを、主任にわかってもらいたかったからです。しかし、からかわれると、さすがに落ち込んでしまいそうになりました。
「横溝君……横溝君?」
「……はい。なんでしょう。」
どうしても返事がぶっきらぼうになる自分に嫌気が差してきます。
「あら? 怒ったのかな? かわいい『ボ・ク』。」
「……怒ってなんかいません!」
「ごめんね。少しからかってみただけだから。あんまり横溝君が純粋だから、私も照れちゃって。」
「………」
「実はね……横溝君の言ってること、全部当たってるのよ。」
「はあ? どういうことですか?」
「ラフな格好も、急いで買い物したことも、全部当たり。でもね、もちろん理由があってそうしたのよ。」
「はあ……」
「正直に言うわね。私も今日のデート楽しみにしてたの。だから、今日は横溝君の好きなスタイルの私を見てもらいたかった。わかる?この意味……」
「……ごめんなさい。今一つわかっていません。」
「もう! ニブイなあ。今日買った服! 今日の服、誰のために買ったと思ってるの!?私が一人で近所にお魚を買いに行くために服を選ぶと思う?」
萎れかけた花が栄養入りの水を浴び、瞬く間に勢いを取りもどし大輪の花を咲かせるように、私の心が溶け出すのを感じました。自分でもだらしがないなと思うほど、口元から笑みがこぼれてきます。
「ああ、なるほど!! 今日買った服、その服を着てデートするってことですね! それは素敵だあ!!」
「ふふふ! 本当に横溝君はげんきんねえ。でもその無邪気なところが憎めないんだよなあ。けっこうおばさん キラーなんでしょ!?」
「いいえ、そんなことないです。それに僕はももこさんを、一瞬たりとも『おばさん』と思ったことないです!!」
「はいはい。まあいいわ。許して進ぜよう~。ふふふ」
本当に楽しそうでした。女性としての喜びが私にまで染みこむような笑顔です。
やがて主任は冷めかけたシチューを見つめながら、しみじみとした口調で語り出しました。
「本音を言うとね。この前の撮影、とっても楽しかった……」
「はい。僕もうれしいです。」
「ううん。きっと横溝君はまだわかってないのよ。私の喜びを。」
「………」
「私ね。今まで誰かに『縛られるって』ことがなかった。自分で言うのもなんだけど、けっこう何でもできちゃったから、いつのまにかリーダーになることが多かったの。だからいつもみんなが私に意見を求めてくるし、みんなが私の決断を待っている。私はいつもみんなの未来や人生をかけて選択・決断をしているの。」
「はい、よくわかります……大変な責務ですよね……」
「もちろん、それが性に合っているし、好きなのよ。好きなんだけど……」
主任は自分の手をじっと見つめながら、大きく息を吸い、そしてそれを少しずつはき出しました。
私はその瞬間に、主任の骨がきしむぐらい強く抱きしめたい衝動に駆られました。
「ときどき、疲れちゃうの。そしてね……変な話だけど……」
主任は再び言葉を止めると、少し頬を赤らめながら
「誰かに命令してもらいたくなっちゃうの。わかるかしら?自分は考えること、決断することをすべて放棄して、ただ誰かが下す命令に、何も考えずに従っちゃう。いじわるな命令でも、それは無理って言う命令も、何も考えずに従っちゃうって感じ……。」
「それが……あのときの僕の撮影だったんですね……」
「横溝君が『ももこさんって呼んでいいですか?』って聞いたでしょ!?あのとき、心の中がキュンとなった。あのときはなんでそうなったのか自分でもわからなかったけど……。でも、指切りしたときも、虫を捕ってくれたときも……そう。いつも横溝君は私に命令してくれた。そのときだけは、なんだか『主任』っていう肩書きを外せた気 がしたの。」
「あのときのももこさん、とっても可愛かったですよ。」
「ふふ、ありがと・・。そして自分でもはっきり意識したのが、撮影だったと思う。あなたが用意してくれた衣装を着て、あなたの言われるままにポーズを取る……。美しい服を着られたから、みんなに誉められたから、だけじゃないの。私が『主任』っていう肩書きを外して、ただの『女』になれたことが、本当に楽しかった。嬉しかっ
た……」
私は主任に対する愛しさが溢れてきました。そして今、この瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れていくのを感じました。それが何なのか、当時の私にはわかりませんでした。
しかし、今ならわかります。
それは、偶像としての「ゆり」さんでした。
私は密かに主任とゆりさんを重ねて見ていました。いいえ、もっと素直に告白しましょう。主任の向こう側にゆりさんの幻影を見ていたのです。主任に対する特別な感情、その糸を辿ると、ゆりさんにつながってしまうのです。
ある意味で私は10年以上、ゆりさんの幻を追い続けていた気がしました。いつのまにかゆりさんと比べていました。
あの瞬間、私はきっと主任をゆりさんの代わりとしてではなく、主任として、一人のかわいい女性として認識しはじめたのだと思います。
「だから……」
「今日は、あのときの感謝を行動で示したいの。それに……」
主任は再び顔を赤らめます。
私は自分が罠を仕掛ける前に、主任自身が罠の中に入っていることを感じました。そして、これ以上主任に言葉を続けさせるのはフェアではないとも感じました。
「ももこさん! もうそれ以上は言わなくていいです。」
「うん?」
「今日は『ただの女』でいたいんですよね。僕に束縛される、命令される『女』になって、いろいろな肩書きを外したいんですよね……。」
主任は僕の目をじっと見つめると、首をコクンと折るように頷きました。
その瞬間、銀色の大きな翼を広げた女神が、私の肩に舞い降りて囁きました。その声は女神というにはあまりに艶めいた声でした。
“のぞむ……のぞむよ……生け贄を捧げよ……か弱き乙女の生き血を以て……我に捧げよ……”
私は自身の中の猛獣を懸命になだめながら、おもむろに主任に告げました。
「わかりました……。今日は、今日だけは僕がももこさんの『ご主人様』になります。その代わり、絶対服従です よ。いいですね……」
私の食い入るような視線を、主任はつぶらな瞳でそのまま受けとめると、静かにこういいました。
「はい。わかりました。のぞむさん……。どんな命令でも喜んで従います…………。」