鈍感は、鈍器の如く危うし | Blog ばったもんのめっけもん
仕事のうえで大きなミスをした。

直接の原因としては、確認の怠りなのだけども、
それは今回だけのものではなくって「常日頃のヒヤリハットに気づいてなかった」
のが連綿となって、必然的に起こったことでもあった。

・無意識でやってると、それを直そうという意識が働かない
・なぜなら、人は多少の疑問はおかしいと思わないようになっている
 状況に合わせて自分の認識を都合よく変えてしまう
・だから、当たり前で違和感のない習慣から、ヒヤリハットに気づくようになる必要がある。
 まずは意識することが大切

ということで、
毎日「ヒヤリハット」を記録することにした。
そしたらば、あれやこれやと出るわ出るわ。
毎日毎日、大きなミスにつながる状況が数多有ったと、
一個一個の業務につけ、突きつけられる次第。
あらためて、問われるのは今回の件は勿論、
これまで行ってきた対応ひとつひとつだと再認識。

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根本的に必要になるのは
「ひとつのことから、幾つも想像して動かなければならない」
ということ。
枝葉をチェック項目に仕立てたところで、
一回一回違うケースなんだから限界がある。
相手のことを、そして一連の流れ全体を考えて
都度、適切な判断する必要がある。


・・・そう考えた時に、
頭の中で拾ったものがあった。

ヨガを教える時も、そうじゃなかったっけ。

ヨガの練習では、
生徒さんの動き・呼吸を観察し、それに合わせてサポートする。
「吸いながら〇〇」「吐きながら■■」と、1/2呼吸ごとに導いていく。
生徒さんによって必要な手助けは違うし、同じ人でも日によって状態が違う。
「この人は、今日はどこまでやるのが最適か」を瞬時に判断して、
適切なポジションからパーソナルゾーンに入って、正確な位置からポーズの補正をする。
それを、トンピンシャンのテンポでやって行かないと、
複数名のレッスンの場合、ほかの人がポーズをしたまま耐久してるので
畢竟ひっくり返ることになる。

補正するときには腕・顔などのパーツだけではなくて、
その人のポーズ全体の力(プラーナ)の流れをみて、どこを直せば正しい流れになるのか
を考える必要がある。
それをせずに、例えば腰だけ手直しを入れると、かえって体勢を崩してしまったり
無理が生じてしまう。
「全体を俯瞰して細部を見よ」は、ビジネスでも写生の仕方でも言われる観察の作法だ。


さらに、ヨガのレッスン場では
ポーズだけに目を向けるんではなくって、相手への声のかけ方にも心を配る。
「足をしっかり床に押し付けて」を「足をしっかり地面に根付かせて」
「手を床に置いて」には「手をゆっくり床に着地させて」
「大きく呼吸して」は「深く吸って空気を送り込んであげて」とか・・
ほんとにちょっとしたニュアンスの違いなので、前者で言っても違和感はないとは思う。
ただ、直球で指示を出すより、できるだけ、からだそのものに伝えるような優しい言葉を選ぶようにする。
また、かける声の調子もレッスンの最初と最後では変化していて、
最終的にリラクゼーションの状態に入るころには、自然と声のトーンが落ちている。

ポーズのサポート・声のかけ方など直接的なやりとりのほかにも、
相手の様子をみて、照明や空調、音楽の種類・音量も、レッスン中に変えていく。


これらを全部、教える側は自分もポーズの見本になりながら
せっせせっせと対応するんである。

・・・私のように愚図愚図で鈍感な人間にとっては、
きわめて難儀であることはいうまでもない。

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自分がヨガを習うときに
「ヨガは稽古場でポーズを取ることじゃなくって、日常生活のための練習」
と教わった。
どんな状況でも集中して自分だけの静かな空間を持てるようになること。
出来ないこともふくめて、まずはすべてを受け入れる心をもつこと。
そして、自分が教える立場になるときには
その空間に居る生徒さんからいくつもの情報を感じ取って、適切な関わり方をすること。


仕事もヨガも普段の生活もひっくるめて、すべてがつながってくる。

今回の仕事上でのことをきっかけに、
あらためて、ひとつひとつの物事に向き合うことになって、
「おいおい、そんなことも考えてなかったのか」というほどの
本当に拙い気づきからの出発になるだろう。
でも、
自分が関わることになる全ての人・事に対して、
一瞬たりとも気を抜かないで
ひとつのことから出来るだけ多くのことを想像して動けるように。