◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 646」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 646」

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 ≪(承前)高陞号撃沈については、東郷平八郎の戦略的思考が大きく関与している。

 この高陞号には、清兵千百人と砲十三門が搭載されていた。

 

 

後述する成歓の戦いは兵力・兵器はほぼ日清互角であった。

 

 

ここに高陞号の増援があれば、勝敗の行方はどうなっていたか分からなかった。

 

 

すなわち高陞号の増援の有無は戦争の全局に関係するほどの重要性があったといえる。

 陸奥の秘書官の中田敬義氏の回顧談によると、日本側は、清国の外交暗号を全部解読していたという。

 

 

清国の増援軍の護送艦隊の動きを把握していた連合艦隊が、策敵中にこれを発見して直ちに襲いかかって撃破し、まだ輸送船がいるはずだと探しているうちに、東郷平八郎の指揮する浪速が高陞号を見つけて、四時間も粘って、手順を踏んだ上でこれを海底に葬ったのである≫

ここには、大東亜戦争時とは“決定的”に異なる「戦略的思考」が書かれている。

岡崎氏が指摘するように、時の東郷平八郎海軍大佐は、海軍としての手柄に執着するのではなく、国家的視点から、戦争のシナリオを描き、陸軍の弱点を補完すべく、清国の増強兵力を阻止している。

 

 

しかも、大東亜戦争時の帝国海軍とは異なり、敵の動きを的確に把握するため、外交暗号を全部解読していたとある。

そのような戦略の基本を十分把握していた「海軍」が何故日米開戦時には、情報の取り扱い“ずさん”になったのか?

日清戦争は、日本に取っては初の近代戦であったから、上は将軍から下は兵士に至るまで、緊張感とともに、相当な準備を心がけていたのであろう。

恐らく、私の想像だが、次の日露戦争では奇跡的大勝利を収めたことによって、この時の教訓を忘れてしまったのではないか?

 

 

慢心とともに“神がかり的な”神州不滅!と言う用語がそれを象徴しているように思う。

次に岡崎氏はこう指摘しているが同感である。

≪そもそも敵の軍艦・済遠を逃しても、高陞号を止める方に専念したのは、戦略的発想がなければできないことである。

 

 

戦略目的は牙山港に向かっている清側の増援を阻止することにある。

 

 

連合艦隊を撃滅するのは、そのための手段であって目的ではない。ゆえに、目的の方に力を集中したということである。

 先の大戦では、日本側は輸送船の護送には重点を置かず艦隊決戦を求めて敵の軍艦ばかりを追いかけたのに対して、アメリカは、護送船団を組んで輸送を守り、潜水艦を日本の輸送船撃沈に集中させた。

 

 

その結果、ただでさえアメリカより乏しい日本の補給に大打撃を与え、日本の敗戦を早める最大の原因になった。

 

 

東郷の戦略は、このアメリカの先駆けとなるものだったといえる。

 昭和十七年八月の第一次ソロモン海戦では、日米の巡洋艦隊同士の戦いで日本は圧倒的勝利を収めた。

 

 

しかし敵の艦隊が護送して来た輸送船団を攻撃しないで、みすみすガダルカナルへの大兵と補給物資の輸送を許し、後の連戦連敗の原因を作っている。

 

 

東郷平八郎の戦略的発想ならば、敵の巡洋艦よりも、輸送艦隊攻撃に集中したであろう

 

 

仄聞するところによれば、商人には刀を抜かないという考え方もあったという。まさに戦略的発想の欠如としか言いようが無い≫

致命的なガダルカナル作戦の発動は、そもそも出鼻をくじかれて、その修復が出来ないまま、ずるずると引き摺られて行った敗戦であった。

つまり、昭和十七年のドウリットルの東京空襲に慌てふためいた連合艦隊司令長官・山本五十六が、陸海軍間で綿密に調整されていたFS作戦を中断して、思い付きでミッドウェイ作戦を発動したことにある、と私は見ている。

SF作戦は、米本土と豪州との間の補給を断ち、我が方の南方作戦を有利に展開しようとしたものであった。

 

 

ところがミッドウェイで大敗北した結果、海軍が進出していたラバウル方面の制空権確保がおぼつかなくなり、その前進基地としてガダルカナル島に前進飛行場を建設しようと、海軍が陸軍に内緒で進めたものだった。

ところが、米軍は予定通り豪州方面に進出しようと侵攻してきた。

そこで今度はガダルカナル基地を防衛するために、海軍は陸軍の支援を要請したが、陸軍にとってはガダルカナル島は寝耳に水、そこで兵力規模を海軍に問い合わせたが、断られるのを気にした連合艦隊司令部は、低く見積もって陸軍に通知している。

そこで陸軍はそれに見合う程度の一木支隊を派遣したのだが、大兵力の米軍に壊滅させられる。

 

 

こうして“身勝手な海軍の作戦”に参加させられた陸軍は、次々に兵力を送り込んだため、終に「餓島」の悲劇を招く消耗戦になってしまう。

大東亜戦争では、この様な陸・海間の緊密な連携が失われ、互いに失策を繰り返していき、兵員の犠牲を増やす結果になった。

日清戦争当時の陸海軍の緊密な共同作戦を見るにつけ、大東亜戦争でそれが失われたことが実に不思議であり、残念なことであった。

続いて岡崎氏は「十八 緒戦勝利を欧米はどう見たか?―一日本は列強の賞賛と嫉視の的に」に論を進める。

≪もともと日本人は、封建時代以来の伝統で、自分たちが、強い愛国心をもつ尚武の民だという誇りはあったが、それが実際に外国との戦闘で通じるものなのかどうか分からなかった。

 

 

それが実際に証明されたのが日清戦争であり、成歓の戦いは日清戦争の初めての陸戦である≫

この指摘は、私が述べた大東亜戦争時の陸・海軍には“無縁”のことであった。

 

 

つまり、自分の戦略・戦術が「実際に外国との戦闘で通じるものなのか」という“謙虚さ”が失われていたように感じる。

 

 

戦後史の中には「国力の差が著しかったのになぜ開戦したのか?」と言う疑問がある。

 

 

日清戦争開戦時の“謙虚な”姿勢が失われ、なぜ犬がクマに襲いかかったのか?何故“政軍共”に謙虚さが失われてしまったのか?という原因の分析が必要ではなかろうか?(元空将)

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