佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 577」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 577」
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情報戦、外交戦という観点から見れば、日米開戦直前の「ハルノート」に対する処置もそうである。あのような「日米会談を無視する内容の『ノート』が、突きつけられた」ということをなぜ政府は、日本国民はもとより世界中に公表して、国際世論を味方につけるよう行動しなかったのか?

 

と言うことだが、これも“几帳面?”で国際感覚に乏しい外交官らの落ち度ではなかったのか?と私は思っている。
 

いずれにせよ、国際関係が緊張しているさなかの昭和16年12月初旬、その出先機関である在ワシントン日本大使館員たちの無関心ぶりを見ても、外交に取り組んで?居た関係者の自覚のなさが覗える…。カワカミ氏はこう書いている。
 

≪(承前)これとほぼ同時期に外国の諸新聞は一枚の写真を掲載したが、それは一人の中国人女性が目隠しをされて縛り上げられ、日本軍兵士の銃剣突撃の標的にされている光景であった!

この兵士の顔つきは日本人ではなくて、明らかに中国人の顔つきそのものであった。

 

目隠しをされた姿は人間というよりもむしろマネキン人形のように見えた。写真に写っているのは兵士が銃剣を女性の体に突き刺している光景であるが、何と血は一滴も流れていないのだ!

 

もしもこの忌まわしい所業が実際に行われたとするならば、日本軍がそのような場面の写真をただの一枚でも撮らせることを許可するなどということが、常識的に見て果たして考えられるであろうか?
 

日本陸軍のT・高橋大佐はニューヨークから来た報道員にこの写真を突きつけられて問い質された時、次のように答えている。
 

「我々が普段訓練を受けているような日本軍兵士の手法は、写真に写っているような手法と全く異なる。我々は銃剣突撃を腰から上段に構えて行なう。日本軍の兵士はこの写真に写っているようなやり方で銃剣を使わない。もしも日本軍の兵士がこの写真の人物のやっているような姿勢をとれば、彼は上官から処罰されるだろう」≫
 

高橋大佐が、この残虐行為を明確に否定したという証明さえも、今では日本側の史料にほとんど見られない。現在でも、南京事件、通州事件、“従軍”慰安婦問題など、ユネスコまでも巻き込んで日本の名誉を汚す“虚偽”の行為が宣伝されているのは、すべてがこの頃からシナ軍側の“反日宣伝活動”視点に立つ、列強国報道部などが協力して作り上げた「反日行動」であるにもかかわらず、当時も今も、わが政府、とりわけ外交担当者は全く反論していないのである。
 

カワカミ氏が、当時の「南京の爆撃」の実態について、明白な証拠を挙げて反論してくれているにもかかわらず・・・。
 

≪一九三七年九月二〇日、上海の日本海軍第三艦隊司令官である長谷川潔海軍中将は、当時予定されていた日本空軍による南京爆撃について、次のような警告を発した。
「日本の軍事行動の目的は現在の戦闘状況を早期解決に導いて、中国軍の敵対活動を終わらせることにあり、そして南京は中国の軍事活動の主な拠点となっているので、日本海軍の爆撃機は九月二一日の午後爆撃という攻撃的手段に訴えるかも知れない。

 

その攻撃目標は中国軍、及び南京内外の軍事作戦と軍事行動に関係する全ての施設に向けられるであろう。
 

予定されている攻撃の間、友好的な列強諸国民の生命と財産の安全が十分に考慮されるであろうことは繰り返すまでもない。しかしながらそのような警告にもかかわらず、日中間の戦闘にそれらの諸国民が危険な状態で巻き込まれるかも知れぬ可能性を考えると、第三艦隊の最高司令官としては南京内外に居住している職員や住民に対して、どうしても次のように忠告せざるを得ない。

 

より安全な地域へ自発的に移動するための適切な手段をとるように、と。揚子江での危険を避けたいと申し出ている外国の軍艦及びその他の船舶は、下三仙のもっと上流に停泊するように、との忠告を受けた」
 

英文の文章としての稚拙さはさておいてこの警告は、外国人の生命と財産に対する予想される危険を最小限に留めよう、という最上の意図の下になされた。

 

もっともそれによって日本の爆撃機は、日本軍の戦略を南京防衛軍に前もって知られてしまったために、大変な危険に曝されることになったのであるが。日本の長谷川中将は当然のことながら、南京全市を破壊し尽くすための無差別爆撃を行おうなどと言う意図は全く持っていなかった。

 

南京政府の日本に対する好戦的な活動を徒に長引かせるのに必要不可欠と考えられる軍事施設及び政府施設のみを破壊する、これが彼の狙いだったのである≫
 

現在の中東で継続されているイラク軍とISとの戦闘でも明らかなように、窮地に立つ“弱者側”は人間の楯を前面に押しだして、イラク軍からの攻撃を回避しようとする。

 

彼らにとっては「国際法」などどうでもいいのであり、生き延びることが最大の目的なのである。そのために犠牲になった市民は数限りないが、現在では戦後にさほど問題にならないにもかかわらず、1930年代のシナ大陸における戦闘での“犠牲者”は、針小棒大に書かれたばかりではなく、その責任を一方的に「敗戦国」である日本側に押し付けられたままである。
 

如何に、「敗戦」が、建国以来初めての稀有な体験だったにしても、その混乱に紛れて、この当時にシナ側から誇大宣伝された「いわれなき非難」反論することなく、我が政府は「泣き寝入り?」してしまったのだろうか
 

尤も在ワシントン大使館員たちの通告遅れの責任も不問にされ、関係者は出世していたのだから、上海事変時の出来事など無視されても当然だったのだろう。(元空将)
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