小和田家の謎:家系図と墓 | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

お墓正面の写真
護国夢想日記

小和田家の謎:家系図と墓
JUGEMテーマ:皇室


どういう家でも家系図はあると思います。
家に無ければ、縁のあるお寺等で調べてもらえれば辿る事も出来ますね。
ワタシも自分の家の家系図見せてもらいました。ごく普通の農家です。
明治時代よりも前に辿れている事にビックリしましたが、
罪人とかじゃない限りごく普通の事だと思います。


さて、雅子さんのご実家である小和田家の家系図、見てみた事ありますか?

皇室に嫁がれる程だから"さぞや数代以上は辿れるちゃんとした家柄"だと思いますよね。

現に
皇后陛下→正田家。江戸時代には米問屋として栄えていた上州館林周辺きっての富商、
本家は正田醤油で皇后陛下の祖父である貞一郎氏は館林製粉株式会社
(後の日清製粉グループ会社)を興した。
 秋篠宮紀子妃殿下→川嶋家。
父方の川嶋家は江戸時代から続いた広大な田畑を持ち、小作人も大勢抱えていた庄屋。
川嶋家に婿入りしたという紀子妃殿下にとっては曾祖父にあたる庄一郎氏は農家出身と
言えども明治時代に高等師範学校(今で言う大学院)を出ており、
いくつかの師範学校校長さらに学習院初等学科長、教授も務めていた。
 常陸宮妃華子殿下→津軽家。江戸時代は大名で戦前では華族。
三笠宮妃百合子殿下→華子妃殿下と同様、江戸時代は大名→華族。
寬仁親王妃信子殿下→父方は実業家(麻生セメント等)、祖母は華族、
さらに曾祖父は大名家。母方は祖父に吉田茂、曾祖父は土佐藩主山内家に仕える伊賀家の家臣のちに政界入り。
高円宮妃久子殿下→父方が実業家。香川県の旧家。

武家だったり商家だったりしますね。
上に挙げた妃殿下方のはいとも簡単に曾祖父よりも前が辿れているでしょう。

ところで、雅子さんが入内前にお墓参りした事ありましたね。
あのお墓の名前はどういう訳か『小和田家之墓』では無く、
小和田『匡利』となっている。






そこで小和田匡利に注目して欲しいのだが、
本籍地である村上市のサイトにもその名前は無い。
金吉の父親と言われているが、未だにはっきりと分からない。

小和田系図
(系図の途中に『?』マークと共に下記の方に『おそらくは別流ならん』と書かれている。)

本家の人に確認するも『?』状態。本家ですら分からないってあり得ないです。

宮内庁がお妃候補の身分調査(皇室に嫁ぐにあたっては当然の事。)するも
どういうわけか解放同盟から抗議されている。これはどういう事なのだろうか?
 雅子さん入内の3年前に嫁がれた紀子妃殿下に関してはどこにも書いていない。
皇室という存在とは関係なしに人権問題として抗議するならば、
紀子妃殿下の時もあっておかしくは無いはず。


 それでは小和田匡利はどういう人なのか?
あのお墓参り、はっきり分かって無いのにお参りしている事自体おかしくないか?
他人の墓を拝んでいるようなもの。

1.『小和田家之墓』もしくは『小和田金吉之墓』が無いのはどうしてなのか?
あるにはあるけれども出せないのか?(お墓参り出来ない状態なのか?)

2.お墓は継ぎ接ぎ状態である。(台座だけ新品。おまけに名前の書かれている
お墓の上の部分は欠けている)どうして全て新品にしなかったのか?

3.上記に挙げた『小和田匡利』の墓がある新潟県新潟市の泉性寺
住職さん曰く

『小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが、金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません』
本籍地の村上市にある西真寺住職曰く

『小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した』
『なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねぇ』


 ちなみに小和田恒・優美子夫妻と小和田毅夫・静夫妻は村上市を訪ねているが、
西真寺のお墓にはお参りしていない。
西真寺には兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある(つまり匡利のお墓だけ新
潟市の泉性寺に。)
小和田家之墓はいざ知らず。


小和田匡利の墓がある泉性寺
宗派→真言宗大谷派
新潟県新潟市中央区西堀通10番町1632
地図URL

西真寺
宗派→浄土真宗本願寺派
新潟県村上市寺町3-29
地図URL





ブログ「櫻花」