六波羅蜜寺 | 大田区鵜の木さろん楓★料理家 印南真帆のブログ「食べることは生きること」

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六波羅蜜寺 に行ったのは、夫が平清盛の縁の地を訪ねたくて、なのですが、
私は、なぜか異様に、この“六波羅蜜”というお寺の名前、言葉に心惹かれていました。


「ろくはらみつじ」と読みます。


すぐ近くに六原小学校がありました。
その辺り一体は六原(ろくはら)と呼ばれているようでした。



ろくはらって?



入館チケットに

「六波羅蜜とは・・・」という説明が記されていました。
ここに転載させていただきます。



「六波羅蜜とは」


布施・ 持戒・ 忍辱・ 精進・ 禅定・ 智慧

の六つを指す。



五つの大罪を犯した者でも、御観音様とご縁を結び
今後は六つの波羅蜜を日々実践することにより
その罪は消えていくであろうといわれています。



ちなみに、五つの大罪とは、

一つには父を殺し、二つには母を殺し、三つには聖を殺し、
四つには平和を擾(みだ)す、五つには仏の身より血を流すことを指すそうです。

(三、と 五、は具体的にどういうことなんだろう?
私自身、まだ理解していません。現段階ではそこまでは解明せずに書いてます)



さぁ、その六つの波羅蜜とは。



一、布施…


見返りを求めない応分の施しをさせていただくこと。

貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことで、布施行は物質だけではない。


⇒分け与えること、ですね。


二、持戒…


道徳・法律等は人が作り、現在はますます複雑になっている。

私たちは高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が肝要である。


⇒これは結局のところ、何を表現しているか難しいですが、戒律を守ること。



三、忍辱…


如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば

苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかる。

全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなる。


⇒「他人」は「自分」を映し出す鏡。

それゆえに、そういうときこそ、自らを弁護して他人を非難したくなってしまう。

そこを耐え忍び、その怒りを捨てること。

これは難しいことだけど

四、精進…


不断の努力をいう。我々人の生命は限りがある。

ひとときも無駄にすることなく、日々誠心誠意尽くすことである。


⇒これはもう言わずもがな、努力することですね。

五、禅定…


冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいう。


⇒そのために、まず特定の対象に心を集中して、

散乱する心を安定させることからスタートしようという意味も含められています。



六、智慧…


我々は本来仏様の智慧を頂戴して、この世に生をうけている。

しかし、貪りや怒り、愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちである。


⇒物事をありのままに観察する視点によって、

思考に依らない、本源的な智慧を発現させること。



そして、さらに調べてみたら、
この波羅蜜の語源はサンスクリット語の「パーラミター」なのだとか。



そして、上記の六波羅ひとつひとつにもサンスクリット語の言葉があります。

今、ネパール人の先生にアーユルヴェーダを学んでいますが、

先生の教えと見事なほどにつながりました。



彼岸に至る行であり、業。



日本は今、祈りが忘れられた国になってしまっていると感じます。

特に、家庭から祈りが失われてしまった・・・。



「便利でありさえすれば、体裁が整っていさえすれば、

伝統なんぞ、しきたりなんぞ、そういう堅苦しい、面倒くさいことは要らない」



「仕事で忙しいからしょうがないよね」



いつの間にか、そういう雰囲気があちこちにはびこって

心を亡くしてしまいました。



私は、プロテスタントの幼稚園に行き、

途中から家庭がカトリックになり、

カトリックの女子校へ行ったがために、

学校に対する反発をいつのまにか

カトリックに投影してしまったようなところもあって

祈る大切さを忘れていたように思います。



子どもの頃は身近だった祈りの大切さを想い起こさせてくれたのは、

ネパールからやってきた先生たちとアーユルヴェーダの経典でした。



真(まこと)の道は、国が違っても同じ。


それをまた実感させてくれた六波羅蜜寺。



この心の穏やかさはなんでしょう???



来年の大河ドラマは、平清盛ですね。

きっと、このお寺、人気になりますヨ。



京都へ行かれる予定のある方、今のうちに、ぜひあの穏やかな清盛像に出会ってください。



空也上人像。

向かって左側に立ちその角度から見上げると

目の中の水晶が光って見えます。



飽きっぽい小2息子も、神妙に宝物殿の中でたたずんでいました。

夫が「もう、出ようか?」と促しても、「まだあっちをよく見てない」ですって。



またひとつお気に入りのお寺が増えました。