【関ヶ原検定】9月8日、大津城攻め関連のお話☆彡 | 小栗さくら公式ブログ「諸行無常の日々」

【関ヶ原検定】9月8日、大津城攻め関連のお話☆彡

関ヶ原検定まであと一週間!

「関ヶ原合戦公式本」の知識にプラスαなツイートをしたので、
ツイッターやっていない方向けに載せておきますね^^

※読みにくいと思ったので、こちらでは敬称略で通させていただきます※

慶長5年9月8日、
毛利元康を総大将として、
毛利秀包(ひでかね)・立花宗茂ら西軍が、
京極高次の大津城を攻撃しました。
(毛利元康・秀包は毛利輝元の叔父にあたります)
大津城は水運の拠点であり街道の要衝でもありましたが、
攻防戦には不向きだったと言われます。

京極高次は東軍に属するつもりだったようですが、
西軍と行動を共にした上、嫡男を大坂に人質として出していたので、
高次の寝返りは西軍にとって大きな衝撃となったのでした。

高次が東軍についたことはすぐに大坂に伝わったため、
毛利元康らが大津を攻めることになります。

京極高次の妻は、浅井三姉妹の次女・初姫。
長女・茶々姫(淀殿)は豊臣秀吉の側室、
三女・江姫は徳川秀忠の正室と、
東軍についても西軍についても複雑な立ち位置だったのですね。

京極勢は兵力差にも負けず奮戦しますが、
総攻撃により三ノ丸・二ノ丸が落ちたことや
使者が訪れたことにより高次は降伏します。

そして15日朝には剃髪して高野山へ向かったのでした。
大津城の戦いに負けたとはいえ、15日は関ヶ原決戦の日。
京極軍は西軍を大津で大きく足止めしたことになります。
結局、毛利・立花勢らは関ヶ原の決戦に参陣することができませんでした。

余談&逸話へ続く☆彡