【播磨レポ】 歴ドル・小栗さくら、黒田官兵衛ゆかり旅!~亀山本徳寺編・その1~ | 小栗さくら公式ブログ「諸行無常の日々」

【播磨レポ】 歴ドル・小栗さくら、黒田官兵衛ゆかり旅!~亀山本徳寺編・その1~

それでは「まとめページ」に書いたように、
「兵庫ブロガー100人戦国トリップ」のレポを
行った順に書いていきたいと思います☆

11月21日~22日で旅をした私は、
前日20日の夜に大阪入りをして早朝に姫路へと向かいました
Twitterで教えていただいた「ぷらっとこだま」を使ったので、
通常の新幹線片道運賃分で「片道+宿泊」の金額に…!
ちゃんとホテルで寝たい、けれど早朝から動きたいって人はコレいいですね(*´∇`*)
色々教えてくださった皆さん、ありがとうございました^^

姫路駅に着いたら官兵衛さん一色!!




官兵衛さん、2014年大河ドラマ化おめでとうございます
私の好きな"しろまるひめ"もいて嬉しい(*´∇`*)


姫路駅前で官兵衛さんの歓迎(?)を受けたところで、
まず初めに向かったのは……。
ジャン!!


亀山本徳寺!!

私の好きな新選組とゆかりのある場所なのです♪
「黒田官兵衛ゆかり旅」はどうしたとツッコミたくなる旅の始まりですが、
前からずっと行きたかった場所なのでお許しを(笑)
大丈夫、戦国も関係したお話をしますから…!(*´∇`*)b

山陽姫路駅から山陽電鉄本線で2駅目の「亀山」で下車。
改札を出て左手に歩くと、すぐに本徳寺の白壁が見えてきます^^

こちらは北門。
ぐるっと回ってこちら↓が最初の写真の正門です^^


空が真っ青♪

姫路市には本徳寺が2つあります。
一つは通称「船場本徳寺」、東本願寺派のお寺。
そしてもう一つがこの「亀山本徳寺」で西本願寺派のお寺なのですね。
亀山本徳寺が先にでき、その後船場本徳寺ができたことで、
本願寺は播州でも東西の体制となったのです☆

さて、本徳寺そのものの話しからは少し逸れますが、
そもそも西本願寺と東本願寺って一体なぜ分かれているのでしょう?

それこそが戦国と密接な繋がりがあるのです☆

織田信長公が浄土真宗の本願寺勢力(一向一揆)と争った石山合戦は有名ですよね。
戦国最大の宗教勢力であり武力も持った本願寺勢と、
天下布武を目指す信長公の戦いは実に10年に及びました。

(本徳寺/経堂)

長きに渡る戦の中で、
本願寺内部にも信長公との講和を考える穏健派と、
徹底抗戦しようという強硬派に分かれるようになってきました。
これこそが東西に分かれる原因になっていくのですね。

顕如さんは講和を受け入れ、紀伊鷺森へと立ち退きましたが、
息子の教如さんは徹底抗戦を主張します。

結果的に本願寺は信長公に明け渡されますが、
教如さんは最後まで抗戦の気持ちがあったのでしょうね。
そんな最中、信長公が本能寺で果てます。

秀吉公の時代になり、秀吉公の寺地寄進を受けて本願寺が完成☆
顕如さんも亡くなり、教如さんの時代になりますが、
教如さんはかつて自分とともに強硬派であった人を側近にして穏健派を遠ざけたため、
対立が発生してしまいます(対立の理由は諸説あり)。

そこで准如さん(教如さんの異母弟)の母が、秀吉公を頼りにして、
三男である准如さんに跡を継がせようとします。
紆余曲折の末に、准如さんが本願寺宗主を継ぐこととなり、
教如さんは退隠することになるのでした。

時は流れ、秀吉公が亡くなり、関ヶ原の戦いが徳川の勝利に決した後のこと。
家康公と接近していた教如さんは、本願寺の東側に寄進されてそこを本拠とします。
こうして出来上がっていったのが東本願寺。

対して准如さんが継いだ方は西本願寺と通称されるようになります。
これには本願寺が対立すれば力を削ぐことができる…という幕府の考えがあったから…なんていう説もあります^^;
大分端折りましたが、東西が分裂する流れは何となく伝わったでしょうか?^^
本願寺が東西に分かれることになったきっかけは、
石山合戦にあった、というわけですね。

こうした流れで西本願寺派、東本願寺派というのがあり、
亀山本徳寺は西本願寺派なのですね☆彡
姫路市内には東西本願寺系の寺院が150ヶ所もあるのだとか^^

亀山本徳寺はもともと英賀(あが)城下に本堂(英賀御堂)があったのが始まりとされています。
英賀城攻めの際に秀吉公により寺領寄進が出され、
寺院が亀山に移されたのだそうですよ。

さあ、次は本堂に行きましょう!(*´∇`*)/