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2011年3月11日 14:46


あの日は友人とカフェでお茶してました。

カフェのお洒落なランプがぐわんぐわん揺れて

お店のラジオで津波情報が流れていたけれど

どうせいつも程度の津波だろうと

たいして気にもしていなかった。


友人と別れてから電気屋さんに立ち寄り

店内のTVに映し出される状況に目を疑った。


いつも利用していた あの飛行場に波がきて

車がまるでおもちゃのように流されている。


事の重大さに気づき すぐに宮城県に住む姉にメールした。

仙台の学校に行っていた甥っ子たちも無事で

家の中も凄いことになってるけど

みんな命に別状はないから大丈夫との返信があり

ほっとしたのもつかの間

その後はまったく音信不通になってしまった。


次に連絡がついたのは2日後くらいで

本当にほっとしたのを覚えている。

でも 実はそれからがかなり大変だったらしい。


水も電気もいつになったら通常に戻るかわからない。

ガスボンベを利用していてガス釜でお米を炊いて

とりあえず ひたすらおにぎりばかりを食べていたという。


ガソリンをいれるためにお弁当を持って半日並ぶ。

コンビニもスーパーも品不足で何もない。

買いたいものは売ってないから

とりあえずあるものを高値で買ったという。


家のTVは4台とも壊れ

新聞も届かずに情報はラジオのみ。


私が愛知でみていたような状況を知ったのは

地震からだいぶ経ってのことだったらしい。


心配で帰りたくても交通手段がない。

親も姉も危険だからこない方がいいという。


とりあえず送れるだけのだけの物資は送ったが

送れる大きさや重さなどに制限があり

いつ届くのかは保証できないと言われた。


あれから2年経つけれど

家の周りの道路は地面が盛り上がったままだし

草がぼうぼうで除染も資金不足できないままだという。


頼めば家の周りの放射線量を測りに来て

数値は教えてくれるけど 放射線量が高くても

近づかなければ健康に問題はでないと言われる。


それでもいまだに怖くて洗濯物も布団も外に干せない。

余震には慣れたというものの緊張はしないはずがない。



私も中学生の時に宮城県沖地震を経験した。


宮城県沖地震(1978年)(みやぎけんおきじしん(1978ねん))は

1978年 6月12日 の17時14分25秒に発生したマグニチュード7.4の地震。

最大震度は仙台市 などで観測した震度5(強震)であり

東京でも震度4(中震)を記録した。(ウィキペディアより)



震度もマグニチュードも東日本大震災ほど規模は大きくない。


それでも その時に実際 経験した恐怖はいまだに消えていない。

もう35年も前のことなのに あの時の恐怖は鮮明に覚えている。


ちょうど中学校の部活の時間で卓球部だった私。

古いガラス張りの体育館で地震とともにガラスが割れて降ってきた。


先生の指示で卓球台に潜り込み

揺れが収まるのを待った。


揺れがおさまったところで

ガラスの破片が散らばった入口から

ガラスを踏みしめながら校庭にでた途端

また大きな揺れが来た。


目の前の木製の校舎が まるで豆腐のように

ぐにゃりぐにゃりと揺れていた。


足元の地面には大きなひび割れが入っていた。

すごくすごく怖かった。


揺れが収まってからの帰り道。

通学路のブロック塀がまるで溶けだしたかのように

ぐにゃりとまがっていたり

崩れて中の鉄の棒がむき出しになっていたり。


ようやくたどり着いた我が家は

当時 酒屋をやっていたので

店の中はお酒と醤油といろんな液体が混ざって

足首のところぐらいまで溜まっていて

ざぶざぶと音を立てながら両親が掻き出していた。


次の日 学校に行くと白壁が崩れ落ち

白い粉で真っ白になった廊下や階段を

毎日毎日 ひたすら掃除させられた。


その時も停電などはあったのだろうが

あまり記憶には残っていない。


ただ その時の揺れの感覚は今も忘れていない。


今でもほんの少しの揺れでも体が硬直する。

心の中で「これ以上 揺れませんように」と祈る。



東日本大震災の後

「リセットされた」とか

「起こるべくして起きた」とか

「ふるいにかけられた」とか

いろんな意見を耳にした。


そうなのかもしれないけど

そんな風に言われて哀しかった。



先日のかすがいスコーラのイベントでも

私は「愛知人」ではなく「宮城人」なのだと実感した。


宮城を離れてから もう25年になるが

やっぱり心は宮城県にある。


被災地から離れていても

心は被災者なのだと思う。


いっぱい思い出が詰まったあの場所に

津波が押し寄せ 帰ることもできなくなり

沢山の人の人生が変わってしまった。



ボランティアで行った時に 仮設住宅の人に

「今 一番 何が欲しいか」と聞いたら

「希望が欲しい」と言われたそうだ。



去年の日記にはこんなことを書いていた⇒★★★


一昨年の3月11日はまだブログを本格的には書いていなかったが

2011年に4月から心理カウンセラーになるための勉強を始めた。


2011年の10月に資格を取得してからは

いつか実家の宮城に戻って

カウンセラーの仕事をすることが目標の1つになった。


震災で心に傷を負い 沢山のことを抱えてしまった人たちに

少しでも心が楽になってもらえるような活動をしたいと思った。


今は その時の為に少しでも学びを深めたいと思っている。




そんな決意を新たにした今日でした。





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多くの犠牲者の方々の魂を無駄にしないために

あの日の出来事を忘れてはいけない。


そして 今はただ沢山の魂が…

残された方々の心が安らかになることを祈ってます。






長くなってしまいましたが…

最後までお読みくださりありがとうございました^^