前回のブログ で、もやいの理事長・大西連さんの講演のことを書きましたが、今回はその続きです。


生活保護を受けている人に対して就労支援を中心にしていくことで、そこからこぼれ落ちてしまう人もいる、という話を大西さんがしたのに対して、会場から「仕事をすることは生きがいにもなると思うのですが、仕事をするということからこぼれ落ちるというのは?」という質問。

それに対して、「給与を得られるかどうかとは別に、人とのつながり、社会とのつながりができる活動をしていくということもありますね」というお話がありました。例えばもやいでは、フェアトレードで入手したコーヒー豆を、かつて路上生活を経験した人たちが焙煎するという事業をやっていて、それは事業としては黒字にはならないのだけど(当事者には給与を支払っていて、豆もフェアトレードなのでお金がかかるため、法人の事業としての採算は厳しい)、でも、そういう風につながり続けることにも意義があるということです。

あと、大西さんが「仕事をしていなくても、その人は生きているんだ」というようなことをおっしゃったので、その言葉から私もいろいろと考えました。


ひとつには、ドリアン助川さんの「あん」という小説を思い出しました。

この小説は、ハンセン病の元患者さんである女性・徳江さんが、近所のどら焼き屋で働く話。

実際、ハンセン病になった方の多くはそうですが、徳江さんも10代で発病して療養所に隔離され、療養所から社会に出られないまま人生を終えていきます。こどもの頃は、学校の先生になりたいという夢を持っていた、その夢はかなえられないまま。

でも、徳江さんは人生の終わりが近づく中で「たとえ何もできなくても、ただ、この世に生まれ、風を感じ、月を見る、そうやって世の中を感じることだけで、生きている意味はある。」と思い至ります。

私はこの箇所を時折思い返しては心が熱くなるのですが。



たとえ何もできなくても、まずはただその人が生きているということだけで意味があり、価値があるということを、自分に対しても他人に対しても思える社会になると良いですよね。



つまり、「生きてるだけで丸儲け」って思えるということだ、うんうん。



そんなことを、講演を聞きながら考えて、思わず「生きてるだけで丸儲け」とメモろうとしてしまいましたが、いかんいかん、そんなことは大西さんは言ってなかった、と手を止めたという(笑)、そんな昨晩でした。