昨晩、区内でもやい の理事長大西連さんの講演があったので、聞きに行ってきました。

とても良くて、いろいろ考えたので、ブログでは一般質問の紹介をしている途中ですが、今日はそのことを先に書きます。


大西さんはもともと練馬区内に住んでいたので、私は大西さんがこういう活動をする前から知り合いで、仲良くしていました。だから、昨年の選挙の時の公報にも「応援します」ということで名前を寄せていただいたということもありました。


でも意外と、講演を聞くのは初めてで…(;´∀`)、昨日は「貧困と差別について考える」というテーマだったのですが、とても良いお話でした。いくつか心に残ったことを書きますが、書いているうちに長くなってきてしまったので、2回に分けて書きたいと思います。


★憲法では、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障すると書かれていますが、それは本来、「尊厳」を指すものであると。ただ、「尊厳」という言葉が使われていないために、「健康で文化的な最低限度の生活」とはどのくらいのものかということが、金銭的な指標で語られてしまうことが多い。生活保護の金額が高いか低いかといった話になる前に、人の尊厳という根本的なことを皆で話し合っていくことが大切だね、というお話がありました。



★それから、例えばセクシュアルマイノリティで、セクシュアルマイノリティに対する差別があるという背景があるために、家族との関係が悪くなってしまったり仕事がうまくいかないといった経験を経て路上生活に陥るということがあって、路上生活から脱却しようとした場合、その人は男性用の施設に入るのか、女性用の施設に入るのか。

事情を考慮してその人は個室にするのか。そうするとほかの人は相部屋なのにずるいって話になってしまうか。

だったらほんとは、そもそもみんなが相部屋で生活しなくてはいけないということ自体が、人の尊厳として問題ではないかというところに立ち返る必要もあるのではないか。


外国人が生活保護を受けるのはおかしいといわれることがあるけれど、例えばずっと日本で暮らしてきたのにかつて外国籍の人は年金に入れない時期があったことから無年金状態で高齢になっている人がいたり、日本に働きに来て日本の男性との間にこどもができたけれどもシングルマザーになって生活が厳しくなってしまった人がいること、日本で厳しい仕事をしてけがをして働けなくなる人もいるなど、いろいろな事情があるという話も。

それって、日本社会にある、外国人に対する差別感が背景にありますよね。



私は、生活保護の制度が金銭給付の面が強いために、その人が抱えている生活課題が無視されて生活保護バッシングが起きており、まずは背景を知ることが必要なんじゃないかとずっと思っていました。


だけど、上記のような事例の話を聞いて、生活保護に至る前にすでに差別や社会的排除を受けている人たちも多いのだということ、生活保護バッシングは単に金銭給付に対するバッシングではなく、前提の差別感があるということなのかもしれない、ということに気づきました。


以前、私の事務所に突然電話をくれた人がいて、「僕は、家族とうまくいかなくて、仕事もうまくいかなくて、今路上で生活をしていて、不審者だって通報されちゃって、そしたらおまわりさんが、【福祉事務所に相談してごらん】って言ってくれたんだけど、でもこのくらいのことじゃ、生活保護受けられる資格なんかないですよね」とおっしゃったことがありました。

いやいや、その状態で生活保護を受けられなかったら一体だれが受けられるんですか、ってことで、大丈夫だから福祉事務所に行ってみてください、もしつらかったら一緒に行くからまた連絡ください、とお答えしたことがあります。


お話ししている感じだと、おそらく発達障害など、なんらかの生きづらさを抱えていて今に至るんだろうとも思ったのですが、そんな大変な状態でも生活保護は受けられないと思ってしまう、その感じって何なんだろうなあと思っていました。


それは生活保護バッシングがあるからだろうとその時思っていたのですが、今回のお話を聞いて、ご本人自体が今まですでに社会的排除を受けているために、尊厳を持って生きて良いと思う力を奪われているということもあるんだろうということを考えさせられました。