東大生はバカになったか? | 最適性理論(音のストリーム)で英語を覚える

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立花隆氏の”東大生はバカになったか 「知的亡国論+現代教養論」”(文藝春秋社)と言う本の中で英語教育についてこう言っております。記憶のとらえ方、考え方は私とほぼ同じで大変に納得しております。

P274~275 エピステーメーはラテン語のスキエンティアにあたり、これが英語のサイエンスの語源で、要するに知識です。それに対して、テクネーは技術です。 -中略-知識が頭で覚えるものであるのに対し、テクネーは体に覚えこませるものです。知識は講壇講義で教えられますが、テクネーは講義だけでは教えられません。


実習が必要です。実習を繰り返して体に覚えこませることが必要です。 -中略-頭で覚える知識は、陳述記憶といって、内容を言語化することが可能な記憶です。それに対して、体で覚えるテクネーは、非陳述記憶で、そのエッセンス部分は言語化することができません。これは手続き記憶ともいって、 -中略-テクネーの大部分は言語化不可能で、その技の伝承も実践を通じてするしかありません。


P276~ 例えば、外国語の習得はほとんどテクネーです。いまも続く日本の英語教育の失敗は、それをもっぱらエピステーメーとして教育しようとして、テクネーとして教えなかった(適切な教師の不足から教えられなかった)ことにあります。要するに、読み書き用英語として言語情報にくだいた形でしか教え(られ)ず、耳と口(聴覚と発声器官総動員)による音声コミュニケーション用としての英語として教えられなかったことにあります。テクネーの記憶とエピステーメーの記憶の最大のちがいは、覚えたことを使うときにあらわれます。


テクネーとして体で覚えた技は、考えることなく反射的に発現させることができます。英語をテクネーとして覚えた人は、考え込むことなく普通に会話ができますが、エピステーメー英語しか学ばなかった人は、会話しようと思っても、最初の(あるいは次の)一センテンスをひねり出すのにも考えこんでしまって、スムーズな会話はできません。


日本人が日本語で会話するのに全く苦労しないですむのは、日本語環境で育ったおかげで、日本語によるしゃべりの技が自然にテクネーとして身についているからです。言語能力というのは、基本的にエピステーメーとテクネーの双方が関わる必要があるハイブリッド能力ですが、しゃべる能力は特にテクネー部分が大きいのです。それというのも、しゃべるには気管、くちびる、喉、口蓋など、発生に関わる器官のすべてを総動員することが必要で、しかもそれを巧みに連携させる必要があるからです。