考える事を忘れていた話 | + AcetiC AciD +

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  創始の仮定+思想の過程=化学変化<生来課程

いつの間にか

考える事を忘れていたような気がする。

それが何なのかって言われると、考えなくちゃいけない内容なんて

特に無いと言えば無いし、普段から何かしらは考えている訳で

 

生活していれば ご飯は何を食べようかとか

今日は何を着て行こうかとか

 

仕事をしていれば どうすれば円滑に進むかとか

何をすれば良い結果が出るかとか

 

そんな事はいつだって考えてる。

 

 

 

毎日を 滞りなく 平穏に

過ぎるべくして やり過ごして

 

日常をただ駆け抜けてくだけだという事には目をつぶって


日常をただ無事に送ることだけに目を向けていて

 

私は

 

考え方を忘れた。

 

 

 

自分がこうだとか 自分はどうだとか

 

そんな事、考えてなかった。だから、考える事を忘れたというよりも

自分の事を忘れた。 自分がどういう人間か忘れた。

 

 

忘れた事が悪い訳ではないと思う。

自分としては、その状態でやっていていたのだから、それは、それ。

それで回っていたのだから、自分にも、周囲にも、特段害は、きっと、無い。

 

 

結局誰しも、きっと同じように過ごしているのだろう。

理解し合う事の面倒さに妥協して

イメージを先行させるから お互い虚像でしかない。

 

じゃぁ私の何が悪いのかって

 

もっと自分について考えてあげればよかったと自分自身に思う。

自分の事、もっと見直してあげればよかったなと。

 

最近たまたま、根本的に自分を見ようと思えることがあって、

それだって自発的にではなかったんだけれども

 

順を追って自分の事を考えると、嫌なことばかりでも、結局何でも腑に落ちるんじゃないかって思えた。

自分の事を考えるうえで、必ず考えなければいけない対象もあるから、

その対象の事も踏まえて考えていくと、自分の何が痞えているのか、その整理になっていった。

 

その整理は、当たり前にやっていた事だったのに

 

なぁなぁでやるようになったのは、一体いつからだったんだろう?

いつだって何にだって、真剣なつもりだけど、その真剣さは

ただ流されて、ちょうどいいところに折り合いつけて、自分自身を何とか納得させて

自分が真剣にやってるって思い込みたいだけだったんじゃないか?

 

本当はそんなこと思ってもいないのに、それで良いって思ってやるようになったのはいつからだろう?

自分以外の存在の意見を、多数決張りにリサーチして、それでいいと納得するようになったのはいつだ?

 

その存在の意見など、本当は私と同じように妥協して考えているだけで、本当の意見ではないかもしれないのに。

 

 

 

言葉と意思のギャップに 気が付かないほどに 私は何も考えなくなって 見なくなっていたことに

改めて気がついて

 

それについて理解を深めようとしたときに

 

はじめて 考え方を忘れたと思った。

 

 

 

 

 

言葉。アウトプットする手段として 一番最初に

一番身近にあるべきものが

無かった事が一番いけなかったのかもしれない。

話さなくても、確認しなくても分かるなんて、そんなものただの思い込みだ。

 

 

自分が

本当に思っている事を発しない以上

他の存在から

本当に思っている事を教えてもらえない、なんていうのは

 

当たり前だと分かっているはずなのに。

 

 

忘れてしまった、失くしてしまったものは

簡単には取り戻せないから 私はまた考える事をはじめよう。

 

そう、誰もが イメージで作り上げられた虚像。

それが有効に使えるラベリングであるなら言うことはないけれど

それだって 私にも、誰かにも、違うかもしれない。

 

その私の中にある「自分」と「自分以外」のイメージを ぶっ壊すことから始めよう。

 

 

私がどこに居るのか  自分でちゃんと 作り直そう。