+ AcetiC AciD +

+ AcetiC AciD +

  創始の仮定+思想の過程=化学変化<生来課程

 徒然と戯れ言。奇蹟の軌跡。 




朔望(さくぼう)です。旧名、櫻朔夜(さくらさくや)。絵描きが趣味です。


たまに写真撮ったり 文を書いたり 歌ったり ピアノを弾いたり 野球やってたり。


そんな日常の何かと、作品置き場的ブログ。


------------------------------------------------------------------


↓亀更新・イラストサイト運営中(親HP)↓




------------------------------------------------------------------


読者登録や、アメンバさんも熱烈歓迎中ですw





↓ブログランキングに参加してみましたw良かったらポチっとお願いしますw↓


$+ AcetiC AciD +にほんブログ村 イラストブログへ



※サイト内は勿論、ブログやプロフ画像のマテリアルは、すべて自作です。 


著作権の放棄はしておりませんので、あしからず…





Amebaでブログを始めよう!
コロナ禍

って言葉も最早耳に馴染み過ぎて
むしろ忘れ去られつつあるこの頃

テレビのニュースもコロナの話題よりはロシア、
初期に比べると落ち着いたと言うよりも日常化してしまったこの時流の中で


何でか急にブログ書く気を起こしました←

恐ろしいもので自粛自粛と当たり前のように言い聞かせていると、何もやる気が起きなくなっていったここ2年間でした。



職場は変わっておりませんが、コロナとともに部署異動となり、職種柄煽りを食らい、臨時休業の名の元にほとんどの時間を自宅で過ごし、何もかもの意義を無くし、何かを創る気力も無くし、絵も描かず文も書かず
ただ待機に飲み込まれておりました。。。

そんな中

趣味の遠出も制限される中オンラインでの新たな出会いや

職場の健康診断で見付かった癌←

昨年末から本年始は入院と手術と。

色んな事が一気に起きて、ある意味覚醒の起爆剤と、
なった気がします。

何かしなくてはと

何かしたいと

また思えるようになって


何ができるかと考えて




起きろ私。




いつの間にか

考える事を忘れていたような気がする。

それが何なのかって言われると、考えなくちゃいけない内容なんて

特に無いと言えば無いし、普段から何かしらは考えている訳で

 

生活していれば ご飯は何を食べようかとか

今日は何を着て行こうかとか

 

仕事をしていれば どうすれば円滑に進むかとか

何をすれば良い結果が出るかとか

 

そんな事はいつだって考えてる。

 

 

 

毎日を 滞りなく 平穏に

過ぎるべくして やり過ごして

 

日常をただ駆け抜けてくだけだという事には目をつぶって


日常をただ無事に送ることだけに目を向けていて

 

私は

 

考え方を忘れた。

 

 

 

自分がこうだとか 自分はどうだとか

 

そんな事、考えてなかった。だから、考える事を忘れたというよりも

自分の事を忘れた。 自分がどういう人間か忘れた。

 

 

忘れた事が悪い訳ではないと思う。

自分としては、その状態でやっていていたのだから、それは、それ。

それで回っていたのだから、自分にも、周囲にも、特段害は、きっと、無い。

 

 

結局誰しも、きっと同じように過ごしているのだろう。

理解し合う事の面倒さに妥協して

イメージを先行させるから お互い虚像でしかない。

 

じゃぁ私の何が悪いのかって

 

もっと自分について考えてあげればよかったと自分自身に思う。

自分の事、もっと見直してあげればよかったなと。

 

最近たまたま、根本的に自分を見ようと思えることがあって、

それだって自発的にではなかったんだけれども

 

順を追って自分の事を考えると、嫌なことばかりでも、結局何でも腑に落ちるんじゃないかって思えた。

自分の事を考えるうえで、必ず考えなければいけない対象もあるから、

その対象の事も踏まえて考えていくと、自分の何が痞えているのか、その整理になっていった。

 

その整理は、当たり前にやっていた事だったのに

 

なぁなぁでやるようになったのは、一体いつからだったんだろう?

いつだって何にだって、真剣なつもりだけど、その真剣さは

ただ流されて、ちょうどいいところに折り合いつけて、自分自身を何とか納得させて

自分が真剣にやってるって思い込みたいだけだったんじゃないか?

 

本当はそんなこと思ってもいないのに、それで良いって思ってやるようになったのはいつからだろう?

自分以外の存在の意見を、多数決張りにリサーチして、それでいいと納得するようになったのはいつだ?

 

その存在の意見など、本当は私と同じように妥協して考えているだけで、本当の意見ではないかもしれないのに。

 

 

 

言葉と意思のギャップに 気が付かないほどに 私は何も考えなくなって 見なくなっていたことに

改めて気がついて

 

それについて理解を深めようとしたときに

 

はじめて 考え方を忘れたと思った。

 

 

 

 

 

言葉。アウトプットする手段として 一番最初に

一番身近にあるべきものが

無かった事が一番いけなかったのかもしれない。

話さなくても、確認しなくても分かるなんて、そんなものただの思い込みだ。

 

 

自分が

本当に思っている事を発しない以上

他の存在から

本当に思っている事を教えてもらえない、なんていうのは

 

当たり前だと分かっているはずなのに。

 

 

忘れてしまった、失くしてしまったものは

簡単には取り戻せないから 私はまた考える事をはじめよう。

 

そう、誰もが イメージで作り上げられた虚像。

それが有効に使えるラベリングであるなら言うことはないけれど

それだって 私にも、誰かにも、違うかもしれない。

 

その私の中にある「自分」と「自分以外」のイメージを ぶっ壊すことから始めよう。

 

 

私がどこに居るのか  自分でちゃんと 作り直そう。