新しい社会運動のありかたのヒントとして【転載】アナキスト 向井孝氏 のことば Part 3 | 原発解体!!!

原発解体!!!

あんまり原発自体のデータがないので勉強します。
使える記事は転載で使ってください。

MIXI 原発解体 コミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2462654
ヒバク・被曝・被爆・癌・医療
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3696088

マイミクAkhil@BorderFree さんの日記 から。


※色つけたり、文字の大きさとかは、私さかなちゃん☆が老眼なんで、自分が読み易いようにしました。


 旧式の運動形態をもう一つ先に行きたい方、新しい社会運動を模索されてる方に是非読んで頂きたいと思います。



【再掲載】アナキスト 向井孝氏 のことば Part 3 (VIJAY ‏@SWDEVAVIJAYのツイートより)

逃げる自由もあらへんかったら、戦う自由もあらへんのや。

旧い運動の特徴とは、

(イ)中央集権的な規約、綱領、運動の方針
(ロ)指導、命令、統制、団結
(ハ)組織的活動がすべての土台
(二)政治的社会的変革を達成するための
(ホ)獲得
目標を定め、その一つ一つ部分的勝利を重ねていく等。
困難や停滞にぶつかるとその旧い体質が蘇る。

仲間かそうでないかの一線を引く、最もはっきりした区分は、
今その人が権力の側にあるか、そうでないかだ。そうでない人たちは、すべて仲間だ。

どんなに意見が違おうが、やり方が違おうが、仲間の側にいる仲間だ。

仲間が権力と戦っている時、自分は何もできなくても、

(ィ)仲間を非難しない

(ロ)そのやり方に賛同できなくて、参加しなくても、妨害はしない

ことが、仲間であることの「必須条件」である。

「新しい運動的個人」が、バラバラで存在している状況を、
どんなふうにして自由な連合として、「力」にできるのか?
その鍵となるのは「バラバラ」をどう捉えるかの問題である。

運動の路線としては、

どっちが正しいかというより、自分はどっちを選ぶかの問題だ。

本来、新旧の折衷や融和というものはありえないことなのだ。
それをまずしっかりと押さえることが、新しい運動のスタートになる。

古い運動の否定、または拒否だけでは、新しい「方法す手段」を何も示さない。

それ以上に新旧運動は互いに対して、相殺的だ。
相殺的であるために、新旧が、折衷、混在する運動は力を失うことになる。

古い運動に対して、新しい運動は
(イ)規約、綱領なんていらん
(ロ)指導や統制はおことわり。
(ハ)組織活動は嫌い
(ニ)目的獲得には手段が大事
(ホ)自己解放なしで、何の社会変革や。

しかしこの新しい運動は、古い運動のアンチテーゼとして出てきてるだけである。

運動が景気の良い時は、問題にはならないが、
対立や分裂が起こるのは、沈滞期に入った時。
そういう時こそもっと意識的自覚的に、新しい運動を作り出さないといけない。

個別化、個人化とは、もともとのひとりに帰ってみること、
自分の本音を問いただし、しっかりと答えられるまで自分を確かめることだ。
ひとりというものは弱いみたいに感じるが、開き直った時には本当に強いものがある。

停滞、沈滞のほうが、むしろ運動の常態であると思ったほうがいい。
それにもともと僕らも、頼りなく不安定な存在である。それが常態である。
個の自立をいう前に、徹底して個別化、個人化をするべきだ。

運動の力というものを高揚してる時の状況だと想定して考えると、
バラバラが、どうこれからの運動の力になるのかわかりにくい。
運動というものは、運動それ自身で高揚を狙っても、めったに作り出せるものではない。
それは時の波を運動がどう捉えるかにかかっている。

問題は

まずバラバラの状態

ではなく、

バラバラを不安定とか弱点と思う見方

にある。




そんな見方に付け込んでてくるのは、運動を見限って辞めることか、 新しい権威主義にすがって、まとめようという方向だ。


バラバラをそのままで運動の新しい特質として、いわば、短所で弱身であったとしても、 逆に長所、強みに転化する「新しい見方」を持つこと。


問題はまずバラバラの状態ではなく、バラバラを不安定とか弱点と思う見方にある。

昔アナキズムの間で「統一ではなく、連合へ」という合言葉があった。



現状は統一ではなくバラバラへだ。バラバラであることには問題がいっぱいある。

しかしそれ以前に「バラバラがあかん」という、 どうしても統一志向が意識の底にあることこそ問題にしなければいけない。

数ではない本気の中身ばかり強調して、あくまで自分たちのスタイルを主張しきると、
自分に同調しないものは、はねつけ近寄らせない感じが出てくる。

自分の方から孤立化を目指してるふうになりがちだ。
しかし、自分流を押し付け、行動しないものを糾弾するようなことがない限り、それも仕方がない。

個人の決意だから勝手にできる。

誰かに相談しないといけないという決まりはない。だから行動するのも早い。
自分の思いを行動に移すという、そのことから、何もかも始まる。
やむにやまれぬ思いというものが行動を作るのだ。

思い」即「行動」ということでこそ行動ができる。
衆を集めて議論したり作戦を練るとか、相談してたら前に進めない。

個人の決意だから勝手にできる。誰かに相談しないといけないという決まりはない。

運動というものは大抵「思い」の突出した部分があって、全体を引っ張っていく事で動く。

いつの時代でも運動を実際にやる人は一定の数以上はなかなか増えない。
そこで運動と言うとまず、野次馬や応援団をどんどん増やしていくことが大切。


運動は活動家だけのものではない。




無責任な外野席大いにけっこう。
色んな人やいろんな声で色んなところから覗きに来る人が増えればいい。