アマゾン川に昇る朝日
「不惑」という言葉がある。
「40にして惑わず」といった使い方をするのだが、果たして僕の40代は惑いっぱなしである。
若き日、「大人」になれば、迷いや悩みなどはなくなると思っていた。
しかし、現実には悩みは尽きないものだ。
ただ、年齢とともに、また人生の結果とともに、悩みの質は変わっていると思う。
若き日の僕の悩みの最も大きなものは、「何者でもない」自分の存在だった。
夢ばかり大きくて、だけど「何者でもない」自分。
そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかった。
現実に勝ち、夢をかなえさえすれば、悩みはなくなるだろうと思っていたのだ。
人間とは、欲深い動物である。
若き日に抱いていた夢は、たくさんかなえたが、やがてもっと大きな夢を抱くようになる。
「夢」を追いかける悩みはまだ良い。
ある程度年齢も重ね、社会的立場が出てくると、面倒なことがいろいろある。
40代の男性(もちろん女性も)は、もしかしたら一番悩みが尽きない世代なのかもしれない。
この世代の人たちの悩みが深いのは、若い時のような「希望」が見えなくなってしまっているからではないだろうか。
「“希望”は若い人の特権」と、人は言う。
現実を知っていけばいくほど、「希望」は見えなくなっていくのだろう。
若い人でも、「希望」を見失っている人が多いと聞く。
大変な時代である。
毎日、洪水のように押し寄せる暗いニュース。
ネガティブなインターネットの情報。
こんなものに毎日飲み込まれていては、「希望」が見いだせなくなるのもいたしかたない、とは思う。
でも、そんな環境に飲み込まれてはいけない。
「環境」に左右される人生なんて、僕はまっぴら御免だ。
周りがどうであれ、いかに暗いニュースが押し寄せようとも、「希望」を捨てず、前に進む。そうした人の存在こそ、周りの「希望」となるのではないだろうか。
「“希望”は若い人の特権」ではなく、世代を超えて「人間の特権」であるべきだ。
僕も「不惑」を超えて、なお青臭いことを言っていると思う。
こんなんだから、悩みが尽きないのだとも分かっている。
ただ、これは性分だから、仕方がない。
この性格、この性分と、一生付き合っていかなければならない。
「自分」を変えるのではなく、「自分の個性」をさらに花開かせていきたい、と強く願っている。
ま、「言うは易し、行うは難し」ですね。
頑張ります!