いつもの雑然としたスーパーで
私の前方から、
50才代のおじさんが近寄ってきた。

「今晩のおかずは、
これだなや!
(これなんだよ!)


いきなり、知らないおじさんから
声をかけられて、びっくりびっくりして顔を見る。

・・・・しかし、その人の視線の先には、
私はいない。



”独り言か?”



”いや、おそらく知的障害者なのではないか?!”
と、気づいた。
注意して耳を傾けると、
にこやかな顔で少し体を揺らしながら、
延々と独り言のような呟きを続けている。

・・・・おのずと次男の将来と重なる。

”でも、もし、知的障害者なら、
1人で買い物できるなんてすごいじゃないか!!”


と、思えた瞬間、
そのおじさんの言動を
あたたかい気持ちで見守ることが出来た。

次男が「障碍」を持っていなかったら、
こんな気持ちになれただろうか。

以前の私なら、

”世の中、いろんな人がいるものだ”落ち込み

と、少し敬遠していたかもしれない。


おじさんは、レジのバイトらしい女の子にも
同じように話しかけていた。
レジの女の子は、
無視して真顔で値段を読み続ける。

”周囲に理解を求める”とは、
こういう事ではないか!と思えた出来事だった。

街中では、少し奇妙に映る我が息子。
でも、それは、後天的につくられた性格から来る言動とは
少し違ったもので、
「障碍」の域にまで入ってしまった
先天的な気質から来るものだと言うこと。

「障碍」をもった人は、
疎まれやすく、
誤解を受けやすいけれど、
「障碍」の知識さえ持っていれば、
世の中の万人も、
そのおじさんを見ただけで、
推し量ることが出来るのではないかと言うこと。


今、私は、以前の考えとは違った意味で、

「世の中には、いろんな人がいて当然」

と、思えるようになった。