チョットした史実の驚き
雑誌「歴史街道」の11月号は
長宗我部元親、盛親父子特集だ。
秀吉の九州平定戦。
前哨戦である「戸次川の合戦」で島津軍の釣野伏せに乗せられた
軍監・仙石秀久の強引な渡河によって、元親は嫡男信親を失う。
(信親の”信”は烏帽子親・織田信長の”信”。大器だったらしい)
秀吉は仙石秀久を高野山に追放し、元親には弔慰の意味で
大隈を恩賞として与えようとするが元親は固辞した。
ここまでは、比較的よく知られた長宗我部氏の話。
盛親は四男である。なぜ家督を継げたか。二人の兄はどうしたか。
次男・親和は讃岐香川氏、三男・親忠は土佐津野氏の養子に入った。
この辺りは毛利の両川と似た戦略を取っている。
しかし、これは信親が本家を相続するのを前提としていた。
信親が討ち死にしたショックもあり手元で育てていた息子が
可愛かったのだろうか。四男・千熊丸(盛親)を家督と決めてしまう。
諫言した重臣数人を切腹(甥も殺している)させるご乱心ぶりである。
前置きが長かったが、ここからが本題というか
知らずに驚いたささやか(?)な史実。
先ず、秀吉は次男・親和が相続することで朱印状を出している。
これを元親は破ってまで千熊丸を家督と定める。
親和は四男に出し抜かれたことに怒って絶食(!)して自殺。
親忠は元親に幽閉されてしまう。
それでも、やはり秀吉に家督を認めてもらえないと後々困る。
ここで元親は、奉行の有力者 増田長盛を頼る。
千熊丸を元服させるのに烏帽子親となってもらい
一字をもらって”盛親”となったのだ!
おそらく奉行として(石田三成と同じくらい)権勢を誇っていた
増田長盛に便宜を図ってもらうのが狙いだったのだろう。
この経緯を全くし知りませんでした。
この事で、「ぬぁ~るほどに~」と納得したことがひとつ。
大坂夏の陣・八尾の戦いで、盛親の組下に増田長盛の息子
増田盛次が属して奮戦している。
上記のような縁があったからに違いない。
(他に大谷吉継の息子・吉治は真田幸村の組下で戦っている。
幸村の嫁は大谷吉継の娘である)
詳しい方は既知の史実かもしれませんが、何か”因縁”というか
家どうしの繋がりの深さ、哀愁みたいなものを感じさせてくれた
「発見」でした。
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河越合戦のルールVer.0.9完成
こちらも、ささやかな史実を踏まえて
北条方の手番チットにもアクセントを付けてみた。
猛将・北条綱成の「勝った、勝った!」と叫びながら
突撃し敵を圧倒したというお話から。
これを引いた手番では、北条方プレイヤーは手番終了まで
「勝った、勝った!」と叫びながら
Playしなければならない(ウソ)。
コンポーネントのリニューアルも終了。
本格的なテストPlayに突入じゃ!
馬引け~い 出陣じゃ~
ボオぉ~ボオオボォォ~(久々)