第1796回 定期公演 Aプログラム
2014年12月7日(日) 3:00pm
NHKホール

ドビュッシー 歌劇ペレアスとメリザンド(演奏会形式)

指揮:シャルル・デュトワ

ペレアス:ステファーヌ・デグー
ゴロー:ヴァンサン・ル・テクシエ
アルケル:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ
イニョルド:カトゥーナ・ガデリア
医師:デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン
メリザンド:カレン・ヴルチ
ジュヌヴィエーヴ:ナタリー・シュトゥッツマン
合唱:東京音楽大学

ペレアスとメリザンド、フルネ都響による演奏会形式での上演以来です。大変評判の良かったアルミンク・新日フィルのコンサートは聴けなかったのですが、今日は十分その渇きをいやすことができました。

10数年前に観たフルネの演奏会は雰因気を味わっただけで、この作品については正直理解できたとは言い難い状況でしたが、今回は心が打ち震えるほどの感動を味わいました。楽しみにしていたのではありますが、まさかここまでとは!!

長いオペラですし、アリアがある訳でもなく、管弦楽が咆哮することもあまりなければ
内容も不思議な若い女性メリザンドを森奥の泉で見つけたゴローが後妻とし愛したものの、
異父弟のペレアスがメリザントと恋に落ちていくのを得ない、苦しむ。でも、メリザンドは
本当はどんな存在か、気持ちがわからない。決定的な場面を押さえてしまってペレアスを
剣で刺殺してしまい、軽傷を負ったメリザンドがなぜか瀕死の状態となり老王アルケルが
諦念に包まれながらゴローを憐み、メリザンドを慈しみ、そしてメリザンドはゴローの子か
ひょっとしたらペレアスの子供(娘)を産み残し逝ってします、喘ぐゴロー・・・、という
あらすじ、完全に苦しむゴローに同化し、ある時には老王の心境に嵌り、
そしてメリザンドの不思議な魅力に嵌ってしまっていたのです。

今回は歌手陣が本当に素晴らしい、登場場面が少ない役でもシュトゥッツマンや
ウィルソン・ジョンソンが配置されています。実に考えられた深い歌唱。
そしてゴローのル・テクシエ、完璧なゴロー、演奏会形式ですが、
完璧な演技、眼、表情、動き、劇的表現、そして最後の嘆きまで
これこそ芸術、演劇と音楽の高度な融合、こんな歌手がいたとは!!!

ヴルチのメリザンドがこの世の存在とは思えない歌唱で
他の録音で聴くメリザンドとは一線を画していました。
これは彼岸の歌唱、美しい。それに女性として美しい(・・・)。
魅入ってしまいました。
彼女の眼の演技も・・・・すばらしい。

デグーのペレアス、なんと誠実、ゴローとの見事な対比。
体当たりの歌唱、見事なペレアス。

ワーグナー歌手として著名なゼーリヒ、
予想外と言っては失礼ですが、何と滋味深い歌唱、
素晴らしい低音の響き、そしてアルケルの諦念を見事に表していました。

子供役のイニョルド、ガデリア、グルジアの歌手でこの役を何度か歌っているようですが、
本当に少年のような声、歌唱でリアリティに溢れていました。
ゴローの背中に乗せられて、ペレアスとメリザンドの逢瀬を報告させられ
怖がっているところなどル・テクシエの迫真の歌唱と共にリアリティ満点。

そしてデュトワ・N響の豊穣でエレガントな響き、
間奏曲やゴローの不安が高まる場面の音楽の見事なこと!
その深い表現には恐れ入りました。
数あるデュトワの名演の中でも屈指のものでした。

これは放送も楽しみ、絶対録画しなければ!
これ以上のペレアスとメリザンドを観ることはできないのだから!!





ドビュッシー (1862~1918)

歌劇「ペレアスとメリザンド」(演奏会形式)


 この作品は、『青い鳥』で知られるベルギーの象徴主義の劇作家モーリス・メーテルリンク(1862~1949)の戯曲に基づくドビュッシー唯一のオペラで、ドラム・リリック(叙情劇、または歌われる劇の意)に分類される。
 1880年代は、フランスにおいて象徴主義の美学に光があたった時代である。ドビュッシーもその思潮のなかでヴェルレーヌや、象徴主義の先駆的な詩人ボードレールの詩によって歌曲を書いている。濃密ともいえるその音楽は、ワーグナーの影響を色濃く感じさせるものであった。ドイツ・ロマン派の究極の音楽とされるワーグナーの楽劇は、当時音楽家だけでなく文学者も含むほとんどすべての芸術家の称賛の的であり、ドビュッシーもそれに夢中になったひとりである。ところが彼は、1888年と1889年のバイロイト音楽祭へワーグナーを聴きに行くうちに、自分の求める音楽はワーグナーのやり方では実現できないと気づく。1889年のパリ万国博覧会で安南(現ベトナム)の音楽劇やジャワのガムラン演奏を聴いたことも変化の一因だったようだ。
 ドビュッシーは、新たな語法を探究する過程で、作曲の師ギローとの有名な対話においてオペラ創作に関する予言的な言葉を残している。「登場人物の話や住む場所がいつどこと限定されず、(…)場所や性格によっていろいろに流動的な場面を与えてくれる詩、つまり登場人物たちが文句を言わず、人生や運命を受け入れるような詩があればいい」。1889年秋のこととされる。彼は、最初メーテルリンクの『マレーヌ姫』(1890年上演)のオペラ化を望んだが叶えられず、残念な思いを抱いているところへ『ペレアスとメリザンド』の劇上演(1893年)を観た。それは、まさに彼の望みどおりの作品だった。物語は、時代も場所もわからない架空のアルモンド王国の城で展開し、登場人物たちを取り巻く自然―─鬱蒼(うっそう)とした森、嵐の海、庭園の澄んだ泉、城の地下道の淀(よど)んだ水、薔薇(ばら)の香り、茨(いばら)の垣など―─やさまざまな出来事が複雑に絡み合いながら見えない力となって彼らの行動を決定していく。彼らはその力のなすがままである。
 この筋立てがドビュッシーを夢中にさせずにはおかなかった。そこで友人の詩人アンリ・ド・レニエにメーテルリンクへの仲介を頼んでオペラ化を願い出た。すると今度は首尾よく1893年の夏に許可が得られたのである。作曲家はすぐに喜び勇んで《ペレアス》の作曲に取りかかった。そして11月下旬には別の友人ピエール・ルイスとともにベルギーのヘントに住むメーテルリンクを表敬訪問し、削除部分の貴重な示唆を受けるなど作家と良好な関係をもった。その後ドビュッシーは出来上がった部分を少しずつ仲間内で披露していき、《ペレアス》上演の期待はしだいに高まっていったが、それでもさまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)があり、上演にこぎつけるまでに9年もかかった。さらに上演が正式に決まると、すべてをドビュッシーに委ねると約束していた作家が、メリザンド役を自分の愛人にやらせるようにと主張して譲らずひと悶着(もんちゃく)起こしたり、また初日2日前のオペラ・コミック座での総稽古(そうげいこ)では支持者と敵対者が入り混じって騒然となるなど、作曲家の気が休まることはなかった。しかし1902年4月30日の初演以降、《ペレアス》の真価を理解し支持しようとする人々(そのなかにはラヴェルもいた)の熱意が徐々に浸透していき、聴衆は真摯(しんし)に耳を傾けるようになる。そして、初日直後の悪意すら感じられる酷評の嵐に黙って耐えた作曲家が、ついに「大成功!」と言えるほど聴衆の反応が変化していったのである。その結果、シーズン終わりの6月末までに14回の公演を重ねることになった。
 ドビュッシーは、5幕19場の原作から、登場人物の感情や感覚と直接には関係しないと思われる部分を削除して事実上5幕15場とした(楽譜では3場を数に入れず5幕12場となっている)。音楽は、各登場人物、森、王冠、指輪、泉などを表すとされるいくつもの、いわゆるライトモティーフを使い、それらが場の状況に応じて変化していく手法による。しかしそれは、ワーグナー流の機能和声理論を土台にした交響的、または従来の展開的な主題労作ではなく、登場人物の内面の変化に即応したモティーフの柔軟な変容によるものである。ドビュッシーにとって登場人物の内面の動きこそが重要であり、その流れは音楽側の都合で中断されたり引き延ばされたりしてはならないのであった。そのため、ゴローに出会ったときのメリザンドの恐怖も、嫉妬にかられたゴローの暴力的な感情も、ペレアスとメリザンドの愛の告白も、必要なだけの時間で誇張なく表現される。オーケストラの音量も控えめで、歌もひとつの感情に留まって声高く歌ったりしない。そうすることで《ペレアス》は人の魂の動きに完全に寄り添える音楽を実現できたのである。それが、長い間自分の語法を探し続けたドビュッシーのひとつの答えであった。

物語の時代:不明
場所:架空のアルモンド王国
登場人物:アルケル(アルモンド王国の盲目の老王)、ゴロー(アルケルの孫、ペレアスの異父兄)、ペレアス(アルケルの孫、ゴローの異父弟)、メリザンド(ゴローの妻)、ジュヌヴィエーヴ(ゴローとペレアスの母)、イニョルド(ゴローと前妻の息子)、医師、羊飼い

第1幕 低音のモティーフ(「森」あるいは「過去」を表す)で幕が開く。森で狩をしていて道に迷ったゴロー(木管の3連符と付点リズムで揺れるモティーフ)は、泉の辺りで泣いているメリザンド(オーボエとクラリネットによるはかなげなモティーフ)に出会い、彼女と結婚して城で暮らすようになる。
第2幕 ペレアスの若々しいモティーフ(フルートによる)で始まる。彼と庭園の泉を散歩するメリザンドが、過ってゴローからもらった結婚指輪を水に落としてしまう。それと同時刻の正午にゴローは落馬して大怪我(おおけが)をする。メリザンドの指に指輪がないことに気づいたゴローは怒って、夜なのにペレアスと一緒に探しに行くように命ずる。メリザンドとペレアスはない指輪を求めて月明かりに照らされた洞窟へ行く。
第3幕 メリザンドが塔の窓辺で髪をとかしながら、「私は日曜日の正午に生まれた」と古雅な歌をうたう。正午は、頂点に達した太陽が下降を始める瞬間、物事が違う方向へ徐々に変わり始めるときだ。したがってその瞬間に生まれたメリザンドも劇全体を転換させていく役割を担うともいえる。塔の下を通りかかったペレアスが、窓から落ちてきた彼女の長い髪と戯れていると、ゴローがやってきて2人をたしなめる。次の場面への間奏は、ゴローのモティーフの執拗(しつよう)なリズムによって彼の心に芽生えた嫉妬心を暗示する。同じ気持ちから彼はペレアスを城の危険な地下道に誘う。疑念を抑えきれないゴローは、息子イニョルドに若い2人の行動を見張らせようとする。
第4幕 ペレアスは旅に出ることになり、その前にメリザンドと会う約束をする。アルケルが城でのメリザンドの暮らしを哀れんでいるところへゴローがやってきて、怒りに任せて彼女に暴力をふるう。一方、独り遊びをするイニョルドは、石の下のボールが欲しいのに石を持ち上げられない。そこへ羊の群れがにぎやかに鳴きながらやってくる。羊たちは行きたい道へ行けないことがわかると、もう黙って羊飼いにしたがって行く。意味深長な場面だ。夜になって約束どおり盲目の泉のところで会ったペレアスとメリザンドはついに愛の告白をし合う。そこへ嫉妬に狂ったゴローが忍び寄ってペレアスを剣で殺す。メリザンドは逃げる。
第5幕 メリザンドはかすり傷を負っただけなのに死の床に横たわっている。ゴローは後悔しながらも、彼女に過ちを犯さなかったかどうか執拗(しつよう)に問い詰める。アルケルが、彼女の魂に静寂をと言ってゴローを諫(いさ)める。メリザンドは小さな女の子を生んだのち、静かに息絶える。

作曲年代:1893~1902年
初演:1902年4月30日、オペラ・コミック座、アンドレ・メサジェ(指揮)、メアリー・ガーデン(メリザンド)、ジャン・ペリエ(ペレアス)



メリザンドの謎

 ペレアスは何者だろう。そしてメリザンドは?

 アルモンド王国の老王アルケルの孫ペレアスには、異父兄のゴローがある。ペレアスの父は長く病床に臥している。ゴローはアルケル老王の指図に従って隣国のウルスラ姫との婚約を果たすべく旅立ちながら、旅先で狩りを楽しんだ日に、森の奥でメリザンドに出会う。やがてゴローはメリザンドを連れ帰国。ペレアスとメリザンドは互いを見初める。

 ゴローは妻メリザンドと弟ペレアスの親密を察知してふたりをうたがい、ペレアスを刺殺するにいたる(メリザンドも胸を刺されるがすぐには死なない)。このドラマには、ダンテ『神曲』「地獄篇」中に語られるパオロとフランチェスカの悲恋の遠い反響が聞こえる。

 素性をけっしてみずから明かそうとはしないメリザンドは、そもそも、どこから来たのだろう。メーテルリンクの戯曲では「1の幕1の場」、すなわち発端の場で、それを暗示する。ゴローが新嫁メリザンドを伴って城に帰ってくる日、女中たちが「ありったけの水」を使って城門のあたりを洗い浄める(このシーンはドビュッシーのオペラでは省かれている)。祝婚の宴にもまして、この「水」はメリザンドを迎える儀式に必要なのである。そして、最後の「5の幕2の場」、メリザンドが息を引き取るシーンでは、城中の女中たちが、だれの指図もないのに、そろって地下室から階上のメリザンドの病室の壁ぎわに並び、臨終の瞬間、いっせいにひざまづく。女中たちはメリザンドをあるじとして、ひそかに彼女を見守っていたらしい。

 メリザンドがペレアスと初めてふたりきりで語り合ったのは城の外苑の「盲人の泉」のほとりだったし、ふたりのさいごの逢引もまた同じその泉のほとりである。だれも底を見たことのないほど深いその泉は、アルモンドの城のそびえる丘の真下に広がる洞窟中に隠れた底なしの真水の池につながっている。ゴローに刺されたペレアスはこの泉に落ち、ついに遺体は見つからない。



神話劇としての『ペレアスとメリザンド』

 こうした場景をつないでみると、メリザンドはもともと、水の神(水を司る神)に仕える巫女(みこ)であろうと想像される。彼女は供犠(くぎ)としてひとりの青年を捕らえることを水の神に命じられている。供犠として選ばれたペレアスは「盲人の泉」からさらに深い水中に運ばれ、水の神の住むところへ移される運命にあった。

 うつし身のメリザンドは、水のように透明な肌を身の丈にあまる誘惑的な金髪で包んでいる。さらさらと流れて、水のように低きに就く金髪がペレアスを包む「4の幕4の場」は、ペレアスにとっては命取りの、運命の定まる場なのだった。巫女メリザンドはペレアスを首尾よく死にいざなって水の神への捧げものにする。だが、水の神の命令を実行したのち、メリザンドもまた、生きつづけられない定めであった。

 メリザンドの素性をこのようにうかがい見るにつれ、『ペレアスとメリザンド』が神話劇の性格をそなえているのがわかってきて、さらに興味は尽きない。