忘れていた幼少期の記憶
人格結成におおきく影響をおよぼしている
幼少の時に一人で遠くまで出かけ、遠くっても子供の感覚だから、
実際にはそれほど遠方に行ってわけじゃあない
ここちよいさわやかな風に吹かれ、花弁が飛び交い舞う
感情の高揚が高まって踊るような心の喜びを感じた
この時に何か筆舌に伝えられないとても大きな感覚を感じ何処までも広がって行った。
この時に深く感情に刻んだようです
たった一人で知らない場所に行く事は、まさに自分にとっては冒険
この出来事が、今後の自分の人格結成に大きく影響しているのは間違いない。
何気ない幼少頃の記憶だけど、これ以上の強烈な感覚を感じた事はありません。
まるで天国にいるようだった
『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』(引用)
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より
爛漫と咲き乱れる万朶の桜でなくてもよい、草かげに人知れず咲く、一輪の草花で十分です。
そこに色彩豊かな立派な蝶でなくとも、薄汚れた、ちっぽけな蝶でこれまた十分です。
一輪の花に二、三匹の蝶が戯れる、どこでも見られる風景ですが、私たちは何気なく見落とします。
良寛さんは、ここをとらえて無心の出合いの真実を詠いあげます。
花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。
しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。
私たちの人生もめぐりあいの連続です。
親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、
また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。
これはみな偶然でしょうか。偶然と言ってしまっては物足りません。
宿命でしょうか。宿命と言ってしまっては救われません。では、一体何でしょうか。すべて因縁の法によって成って行くのです。
最初、原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。
結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。
因縁と果が循環するのです。これを仏教では因縁の法則といいます。
例えば一箇の豆の種子があります。これが因です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。
芽が出て実がつく、これが果です。縁の働き具合で果も大きく違ってきます。
悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となるのです。これが仏教の因果律です。
決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出合いです。
私たちのめぐりあいも、因縁の法に従っての結果です。
その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。
法則に従って生きる、否、生かされている事を謙虚に自覚して、めぐりあいを生かす生き方をしたいものです。
子を抱いているとゆく末のことが案じられる
よい人にめぐりあってくれと
おのずから涙がにじんでくる
(仏教詩人 坂村真民「めぐりあい」より)