こんにちは(^^)。
makaronov
さんからコメントをいただきまして、こちらにお答えするにはコメント欄では狭すぎますので、ここでお返事いたします。
その前に、実は、なぜか?! わたしの名前とリンクを貼って、makaronovさん宛てにこんなメールをいただきました。一旦は削除させていただいたのですが、ご紹介します。
こちらには、makaronovさんをはじめ大変に意識の高い方がいらっしゃってコメントを残されているようで、それもひとえにRumiさまのお人柄(行間からにじみ出るものですよね?)ではないかと、いつもこちらもコメント欄も欠かさず拝見しております。
Rumiさまには差し出がましいことかもしれませんが、ご迷惑をおかけいたしましたら、お許しください。
わたくしは、わりと早い時期からこちらに伺っているものですが、(コメントはまだ2,3回しか残したことがありませんが)
>チャリティーと銘打った華やかな社交を見るたびにわたくしには強い違和感が。
延いては上流とは?にもつながっていくのですが
の下りに関しては、夏に大学にレクチャーにいらした際のご報告の中にヒントがあり、Rumiさまもmakaronovさんと同じ気持ちでいらっしゃるに違いないと感じました。
その中で、チャリティの際には、経費報告書に目を通すこと、そして、パーティなどに当てられる経費が15%を超えないNPOで、地道な活動をしているためスポットライトが当たりにくいソーシャル・サービス系の団体を特にサポートするとよい、と書かれています。
そのことは、「チャリティは踊る」ではいけない、という言葉でどこかで戒めてもいらっしゃいましたし、また25ansで連載されていた小説の解説の中でも、花形のチャリティにお金をばらまき、名声を博したい主人公がなぜ、社交界で受け入れられないかをきちんと書いてくださっています。
Rumiさまは思うに、日本の雑誌などで、華やかな社交、上流と上辺だけ紹介されるものの裏に隠れて見えない美徳をなんとか紹介したいとがんばってくださっているように思えるのです。
長々と失礼をいたしました。
というものです。
大変にうれしいコメントです。
お名前を教えていただけますと幸いです。
この方が書いてくださったことは、まさにわたしが意図していることに近いと言えます。
Makaronovさんの最初のコメントを拝見したとき、まず感じたことは、わたしとmakaronovさんは根本的に感じていることは同じで、同じボートに乗っているんじゃないかなってことです。
わたしは、大学時代にあの時代でも珍しいと思うのですが(団塊の後の無気力の世代ですから・笑)マルクスにかぶれまして、資本論を日本語で読み、どうしても難解だったので英語でも読んだほどです(翻訳はわたしの頭では大変に難解だったけど英語だと大変に分かりやすかった)。
そして、アーカイブにも書きましたが、地方の放送局を経て、また母校の社会福祉学科修士課程に戻ったのです。
このときは理想に燃え、町屋の4畳半一間、お風呂なし、トイレも共同の、当時でも信じられないほどのボロアパートに住み、世の中の底辺を体験してやろうと気負っていました。
(この経緯はお恥ずかしいのですが、アーカイブでどうぞ)
けれど、わたしの力では何も変えることができず、最終的には自分に惨敗しました。
その後、20代のわたしは、自分の煩悩と理想のはざまで揺れ動き、今思い出してもあの頃の自分はなさけなく、ただただ嫌いです。
それでも暇があると、救いを求めるように時々読んでいたマルクス、ホッブス、エンゲルス。
ある日、まるで小さな電球がぽっと灯るように気づいたことがありました。
「マルクスのいうユートピアはなんてすばらしいんだろう。けれど、どうしてこの世に存在しないのだろう」
という疑問に、突然わたしなりの答えが見えたのです。
その理由はとっても簡単。
マルクスは、本来人間がもつ決して平等ではない能力を無理やり平等という箱に押し込めて考えようとしているから、ではないかと。
だから、毛沢東専属の医師が書いた暴露本によると、人より優れていた毛沢東はリーダーの地位を確立すると、結局本人の目指すところからはほど遠い独裁者さながらの生活におぼれていく。一方、崩壊したソビエトでもリーダーたちに権力と富が集中したのが実情だった、ということになってしまう。
第一次産業に関することも同様で、わたしも子供の頃から、お百姓さんが作ってくださるお米の大切さをこんこんと言われて育った人間です。一粒でも無駄にしてはいけないと。
アメリカでも、一時農業を保護するため、政府がオーツを買い取りアフリカやアジア諸国に寄付したことがありました。しかし、結果は寄付した先の国のオーツの価格が下落、その国の農業に打撃を与えることになってしまいました。自国のために良かれと思ってしたことが他国に迷惑をかけてしまう。
なんとかしたいと思っても、理想的な解決が簡単にはみつからない。
また、ニューヨーク・タイムズの記者、ニコラス・クリストが大変に考えさせられる記事を書いています。
「バングラディシュやインドなどで13歳未満の児童が就業に携わることは確かにいけないけれど、それを禁止してしまうと、その児童の収入に頼っている貧しい家庭にますます打撃を与えることになる。次なる世代のことを考えると、たとえ13歳未満でも働く機会を与えることで、それが次なる世代で貧困を脱却できるバネにつながるかもしれない」
政治/経済って本当に一筋縄ではいきませんよね。
それに人間はみんな多かれ少なかれ、食欲、性欲など、過度になれば煩悩に結びつく業から無縁ではいられません。
でしょ?
それを無理やり否定したり、平等にならしたりしようとする社会には無理があるのではないかという考え方もあるわけです。
わたしが理想的な社会主義を貫こうとして挫折したのは、その辺の現実との折り合いを上手くつけられなかったからではないかと今では思います。
確かに、こざるさんがおっしゃるように、
>北欧あたりでは、税金がべらぼうに高いですが、その代償として貧富の格差は小さい。皆そこそこの暮らしができる。そうすると、チャリティの必要性はそれほど高くない社会になる(それでも途上国支援や環境活動など社会貢献の余地はあるでしょうが)
という形が理想的に思えます。それでも、スエーデンに住むさよこさんは、「貧富の差が小さい社会ではどんぐりの背比べで、車の車種を競ったりするようになる」と指摘なさっています。
スエーデンのシルビア妃殿下がInwood House
にいらしたとき、スエーデンでもチャリティに関するタックス・インセンティブはないとおっしゃっていました。海外、特にアフリカやアジア諸国へのチャリティは妃殿下が国を代表する形でなさっているのもそのためかもしれません。
人間って、すばらしい生き物ですけれど、悲しい性も併せ持つ生き物。
そして、それではいけないとタテマエを押し通す社会がいいのか、多少人間味のある弱みも包容できる余地のある社会がいいのか。
日本は残念ながら、昨今は格差社会といわれ、北欧タイプからアメリカタイプに移行してきているようです。
こざるさんは、アメリカ的なシステムを
>チャリティか税金か、どちらにせよ、富める者のオカネが社会を支えていることには違いはないのですが、多分、アメリカシステムの方が、お金持ちは喜んでオカネを出すのですよね。なぜなら、どの団体に寄付するかetc.支出先を好きなように選べる上、自分が良いことをしたと実感しやすいから(税金をたくさん支払って満足感を得るのは難しい)。
しかしこれも言い換えれば、アメリカがよしと信じる小さな政府では、ブッシュのように安心して任せておけないリーダーが政権を握っているときは、税金もどう間違って使われるかわからないわけで、その点、支出先を自分たちの判断で選べるという利点のあるチャリティが大変に意義をもってくるとも言えます。
先日のインタビューで、ウォーレン・バフェット財団から多額の寄付金が流れ込んだゲイツ財団のプレジデントが、「この莫大なお金の使い道を決めるにあたり、責任はますます重大だ」と真摯に答えてらっしゃいました。
>このシステムだと社会が「施す者」と「施される者」に分かれてしまうし、施す者に幾ばくかの優越感、施される者には劣等感を与えてしまいがち、なのは仕方ないような気がします(とはいえ、そうならないように気を配る工夫もいっぱいなされていると思いますが)。
はい、その通りです。そうならない工夫、気配り、それをご紹介するのがわたしのブログの使命です。
アメリカには、繰り返すようですが、真摯な気持ちで、単なる優越感とか名誉欲を超えて社会に貢献している人がたくさんいらっしゃいます。
この前の記事で告白していますが、目のことがあるため、これからは毎日のようには更新できないかもしれませんが、時にはミーハーなコラムでコーヒーブレイクをしながら(爆)少しずつご紹介していきたいと思います。
どうぞこれからもよろしくおつきあいくださいませ。