敦賀にある金ヶ崎宮です。
金ヶ崎城址に鎮座し、金ヶ崎城址を境内地としています。
明治23年、金ヶ崎城で自刃し最期を遂げた尊良親王を祀る社として地元有志の手によって創建されます。明治25年、同じく金ヶ崎城に滞在していた恒良親王が合祀され、現在、尊良親王と恒良親王を祭神とする社になっています。
舞殿。
拝殿。
本殿。
祭神は尊良親王と恒良親王。
尊良親王(1311~1337) は後醍醐天皇の第一皇子。母は二条為子。元徳3年(1331年)、一品。元弘元年(1331年)、元弘の変においては後醍醐天皇と行動を共にし笠置山に逃げるも、鎌倉幕府に捕らえられ土佐配流。翌年、土佐を脱出して味方を募るべく九州へ渡り、同じく配流地の隠岐から脱出した後醍醐天皇と合流し京へ帰還。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は建武の親政を行うも、建武2年(1335年)、足利尊氏が離反。建武3年、後醍醐天皇と共に比叡山に入ります。同年、入京した足利尊氏の和睦の申し出を受けた後醍醐天皇は、新田義貞の求めに応じ尊良親王と恒良親王を共に北陸へ落とします。尊良親王らは足利軍の追撃を受けながら金ヶ崎城に籠城。建武4年2月、義貞は援軍を募るため、金ヶ崎城を長男義顕に託し城を落ちます。同3月3日、足利軍が金ケ崎城を攻め、同6日、金ヶ崎城陥落。尊良親王は新田義顕と共に金ヶ崎城で自刃しました。
恒良親王(1325~1338?)は後醍醐天皇の第五皇子。母は阿野廉子。元弘の変の際、父後醍醐天皇に連座して但馬国へ流されます。後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし建武の親政を開始すると、恒良親王も京へ戻ります。建武元年、立太子。翌年、足利尊氏の離反により、比叡山へ逃れた後醍醐天皇とともに同行。後醍醐天皇は新田義貞につけて尊良親王と皇太子恒良親王を北陸に落とします。籠城していた金ヶ崎城を足利軍に攻められ、建武4年3月6日、金ヶ崎城陥落。恒良親王は城を落とされますが、まもなく足利方に見つかり京へ連行され、花山院に幽閉されます。「太平記」によれば翌年足利直義の命により毒殺されたとしています。
金ヶ崎宮;福井県敦賀市金ヶ崎町1-1