フランスの歴史 財政-税金2 | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史 財政-税金2

            フランスの歴史 財政-税金2  

 

 

 前回、財政-税金1で王は広く平民から恒常的な直接税徴収を目指しますが、様々な条件付きの『明白な必要性』時の『御用金』しか認められなかった。との説明でした。

 領主達は、例え隣の領地が攻撃されたとしても『明白な必要性』を認めず、実際に自分の領地が攻撃された時しか『明白な必要性』があるとして御用金の徴収に応じない。といった矛盾が生じます。このような状況では攻撃を受けた時に軍資金が無い状態となるため恒常的な直接税の徴収が急務となります。 

 

御用金から援助金へ (1356年~)

 

 イングランドとの100年戦争は、軍備費調達の戦いでもありました。特に、1356年のポワティエの戦いに於けるフランス王ジャン2世の身代金の支払いが大きな問題を投げかけます。

 

 フランス国王が臣下である諸侯の同意を得ることなく課税できる4項目が存在(慣習)したようです。

 

1.王が捕虜となり、身代金を支払う場合。

2.王の長男が騎士の身分になる場合。

3.王の長女が結婚する場合(持参金として)。

4.王が十字軍に参加する場合。

 

1.身代金の援助金は臨時上納金、献金、臨時税、封建上の賦課等種々 

 の表現が見られます。ルイ9世は1248年に第7回十字軍遠征の際捕虜

 となり援助金を徴収しています。

  国王が捕虜になった時の身代金の支払いについては協力的だったよう

 です。この点は、当時の戦が相手側の騎士を捕虜とし、身代金を取ること

 を目的とした側面も有しており、捕虜交換や身代金の支払いも当然の行

 為であり、自分達にとっても身代金の支払いを拒否する風習が出来上が

 っては困ることになります。

2.についてはフィリップ4世(在位1285年~1314年)の長男が騎士とな

 る1308年に援助金を徴収しています。

3.についてはフィリップ4世の長女の婚姻(1313年)のための援助金を1

 319年に徴収しています。

 

 フィリップ4世は諸侯ばかりでなく、ブールジュやラ・ロシェルの都市からも反対を押して援助金を徴収しています。

 

 フィリップ6世(在位1328年~1350年)も1332年に長男(後のジャン2世) の騎士叙勲と娘の結婚のための援助金徴収を図り、取りあえず騎士叙勲の援助金徴収を求めますが反対者が現れます。

 最終的には1334年12月に高等法院(パルルマン)によって援助金支払いの裁定が下されます。娘の持参金については娘が亡くなったために援助金の徴収を断念します。ジョンの騎士叙勲援助金徴収については、1335年にジョンが重い病気にかかるものの奇跡的な回復を果たしたことにより、既に徴収した分は返還し、以後の援助金徴収を中止したとされます。もっとも十字軍遠征のための援助金も要請しますが、些少な援助金しか受けられなかったようです。

 

 前記以外に、戦時に於ける臨時義援金的な性格の『戦争の補助金』とも呼ばれる援助金は『御用金』でしたね。戦争の税金なので御用金とされたものと思われます。

 御用金は自分達の領地や都市が直接危機に見舞われた際の戦費として徴収できましたが、危機や被害のない地域では徴収に反対する動きがあったようです。

 

 1294年から1356年まで度重なる、御用金を求めたため領主達の反発も生じ、1315年から1316年、北部フランスに広範な死者をもたらした飢饉の影響も重なり、フィリップ6世(在位1328年~1350年)の時代には、『諸侯の同意を得ることなく課税できる』筈だった援助金(エードとも呼ばれた)の課税も困難に見舞われる時代となっていたようです。

 

 このような情勢の中、大きな問題が持ち上がります。1356年のポワティエの戦いで捕虜となったジャン2世の援助金です。1360年、ブレティニ・カレー条約で決められたジャン2世の身代金は300万エキュ(銀貨)にも達する膨大な額でした。最初の年に60万エキュ、以降毎年40万エキュの額を6年間に渡って分割で支払うとする内容です。

 

 南フランスのラングドック三部会は、ポワティエの戦いに於ける敗戦後の1358年からで数管区に及ぶセネシャル(南フランスの裁判所)管区に1竈(かまど)に金1ムートンの税の割り当てを行います(先行決定)。この金額は1360年に決められることとなるブレティニ・カレー条約の頭金60万エキュの3分の1に相当する額です。

 

 北フランスのラングドゥイーユ三部会がジャン2世の援助金に関して開催されます。王太子すなわち後のシャルル5世(在位1364年~1380年)が「国王に従属する全ての者」の義務と明言し、パリを含む都市に対しても援助金の支払いを強要します。

 諸侯の同意不要4項目の援助金は、貴族領主や主教領主が課税対象でしたが、課税特権を有する筈の自由都市に対しても求めたものです。

 

 パリに於いては10万エキュ(銀貨)の支払いに同意します。ただし、ラングドゥイーユ中で、援助金は強制借入金~loan として徴収されました。

 借入金ですので、王は借入先(教皇やイタリアの銀行)返還しなければならず、地方毎に彼らの好む種類の税の形態を選ばせ徴税します。

 

 地方には、パリの基準である5%の一般消費税&塩とワインに対する課税&収入1リーブル当たり2ドゥニエの課税(1リーブル=20スー=240ドゥエニ、つまり0.83%)が示され、これら徴収した金員を借入金の返還に充てる手法(国民の皆様、王がお金を借りて~立て替え払い~支払ったから、税金で王に払ってね。)をとります。

 

 一時金として徴収すべき援助金を、間接税として徴収することとなるのですが、1360年12月5日に所謂エド・エ・ガベル~aides et gabelles~援助金と消費税 を創設する勅令を出します。これら間接税は君主の財政構造の中で確固たる地位を保持することとなります。

 貴族領主達は、援助金の支払いには概ね協力的だったようです。都市は、免税特権を与えられていたので、自分達に明白な危機(非常事態)が存在しているかどうかが御用金支払いの可否に影響を与えたようですが、身代金のための援助金支払いには貢献したようです。

 

 国王が捕虜となり、領地の一部を奪われるという国家危機に直面し、当然税金を支払う人も減少している状況の中、『援助金と消費税』を徴収する手法で対処したわけです。この税も7年間で身代金を支払う予定でしたが、臨時支出に流用し、結果的に引き延ばしに成功し、恒常的(平和時も)なとなります。

 

フランスの歴史 財政-税金1 こちらへ

フランスの歴史 財政-税金3 こちらへ

 

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