ネゴシアン
ネゴシアン
和訳でワイン商、酒商とされるネゴシアン~ Négociant。卸売業者、卸売商を指す言葉でもあり、Négociant en vins と表記されるケースもあるようです。négocier~交渉する、商談をするの派生語とされています。
ネゴシアンも当初は葡萄果、果汁、樽詰めワインを生産者から直接仕入れ、、自社で醸造・貯蔵・熟成させたうえ、ブレンド・瓶詰めして自社のエチケットを貼って販売していたようです。
かつては、多くの葡萄栽培者達は醸造設備を持たなかったり、販売ルートを有していなかったためネゴシアンに自己の葡萄やワインをネゴシアンに買って貰い、現金化する手法が採られていたようです。
ネゴシアンがいつの時代から存在したのかは定かではありませんが、イギリスに対する輸出を支えたのはネゴシアンであったことは間違いのない事柄であり、14世紀半ばにはワインは重要な輸出品とされていました。
時は下り、ネゴシアンが隆盛を極めるのは、ワインの供給量、消費量が増えた時代となります。つまりはワイン造りが盛んとなり、一般大衆により広まった時代とみるべきなのでしょう。
ワインの供給と消費は表裏一体ですから、ワインの供給の面から考えてみましょう。前述の14世紀頃には、一部の特権階級者達がワイン造りをしており、農民の多くは葡萄栽培をしていたとはいえ、小作として造っていたり、農奴として造っていたにすぎません。
ところが一大変革が訪れます。1789年にフランス革命が起こり、1804年に公布されるナポレオン法典の出現です。
それまで領主(王から与えられたことになっていました)や教会、修道院が所有した葡萄畑は国家によって没収され、競売に付された(概ね1800年から遅いもので1850年の記録も)のです。
それまで自由に土地を売買することが出来なかった葡萄畑の所有権の形態が大きく様変わりします。
葡萄畑は廉価で販売され、細分化され一般の農民でも買う事が出来たのです。
他方、市民階級と呼ばれる人々が経済的恩恵を受け、ワインの消費量が飛躍的に拡大します。この好機に目を付けた金持ちが、こぞってネゴシアン業に参入し、やがては大酒商へと変貌していくこととなります。
いまでもボルドー市のシヤルトロン河沿いにはネゴシアン街とでもいうような街並みが残っているようです。これらネゴシアンの隆盛は1972年まで続くことになるのですが、当時のワイン流通の変換点が1870年代に起こっています。
1870年まではフランスはワインの輸出国だったのですが、1875年にはフランスの葡萄は大豊作となります。にも拘らずワイン不足の決定的要因は有名なフィロキセラ禍。
1879年以降は完全なワイン不足に陥ります。 ために、イタリアやスペインから大量の安ワインが輸入されます。1880年代には輸出(高級ワイン)量が200万hlに対し輸入量が1200万hlにまでなったと言われています。
フランス国内では、フィロキセラの影響で生産量が激減し、対してフィロキセラ禍に合わなかったラングドックの質の悪いワインが登場しますが、消費が拡大したワインの需要を満たすには至りません。
ここで悪質なワインが登場します。当時の関税法ではアルコール度数11度以上のワインに関税が生じるため、イタリアやスペインのワインを水で薄めて輸入し、フランスの植民地であったアルジェリアの無関税ワインを混ぜる手法が横行します。
さらには、葡萄の搾りかすに砂糖と水を加えて造られる加工ワイン等が横行(50万klに達したとか)することとなります。
これらの悪行を行なったのは輸入業者と記述されていますが、当然ネゴシアンも行っており、ワインの信用は著しく失墜することとなります。
このようなワイン不足の状況下では、当然フランス国内でも増産運動が始まります。フィロキセラ対策も功を奏し(1880年頃終焉)、1900年頃になると逆にワイン生産が過剰となってしまいます。
しかし、悪行に一度手を染めた業者は、輸入ワインに加工した同様の手法を行います。
フランス国内で調達できる、糖度の低い葡萄に対しても大量の砂糖を加えてアルコール発酵させワインを造り(シャプタリザション)始めます。
フランス政府もやっと1907年に「カイヨ法」を制定し、アルコール添加、砂糖の添加、水増しを禁止することで不正ワインが減少していくこととなります。
シャトー元詰運動(法制化は1972年)やAOCの制定(1919年)は、これらの不正が端緒となっているようです。
さて、お話をネゴシアンそのものに戻しましょう。ネゴシアンは葡萄果、果汁、樽詰めワインを生産者から直接仕入れ、、自社で醸造・貯蔵・熟成させたうえ、ブレンド・瓶詰めして自社のエチケットを貼って販売していたと書きましたが、ボトリングされた高級ワイン(シャトーものと呼ばれる)を直接仕入れて販売するネゴシアンや自社で葡萄畑を購入しシャトー経営を始める者や、葡萄栽培、醸造、販売まで一括管理する(ワイン造り、販売の受託)ネゴシアンも現れ始めます。このような多角化は経済の当然の流れでもあるのですが、ネゴシアンの醸造・販売の独占化が少しづつ崩れてきたことにも因るようです。
ワインの醸造・販売に関して独占状態であったネゴシアンは、葡萄の不作時には著しく価格を低く抑えこみ、自分達の利益を優先し、栽培者に対してしわ寄せを迫る等の好ましからざる商行為を行なってきた結果、生産者達に新たな動きが始まります。
1840年頃から生産者達は協同組合の設立を行ない始めます。後に農業銀行や政府の援助もあり、第1次世界大戦終結時(1918年)に飛躍的発展を遂げ、現在は農業協同組合の数は2万とも言われているようです。
その中でも、葡萄部門の活躍は目覚ましいものがあるようです。
結果的にネゴシアンの地位は相対的に下落し、1973年のバブル崩壊を迎え、ネゴシアンの離合集散、寡占化が続いているようです。
主なネゴシアン
Baron Philippe de Rothschild~バロン・フィリップ・ロートシルト
~ムートン家(シャトー・ムートン)所有。シャトー・コロンビエ・モンプルー所有。
シャトー・クレール・ミロン運営。ムートン・カデ販売。
Joanne Bordeaux~ジョアンヌ・ボルドー社
~ボリー・マヌー社のカスティジャ家と同族。上級シャトーもの専門。アントル・ドゥ・
メールに広大な倉庫を持ち、在庫量は膨大とか。
Nathaniel Johnston ~ナサニエル・ジョンストン社
~1714年創設。上級ワイン取り扱い。6割輸出。シャトー・オー・ブリオンのセカンド・
ワイン等の専売権を所有。
Barriere Freres~バリエール・フレール社
~良酒中心。シャトー経営も。
Barton & Guestier~バルトン・エ・ゲスティエ社
~ACもの中心、8割を輸出。1725年創設。Chランゴア・バルトン所有。
カナダのシーグラム系のChemineau Freres傘下へ。
Borie Maunoux ~ポリー・マヌー社
~ACもの中心。キッコーマンが提携。詳解はこちら
Calvet~カルヴェ
~1870年創設。各種ACもの。1982年イギリスのビール会社ホワイト・ブレッドに
買収される。サントリー取り扱い。
Cordier~コルディエ社
~ 格付けシャトーをはじめ多数のシャトーを所有していたが、1984年に金融グループに
買収され、現在はタイヤン・グループ傘下。
Mahler Besse ~マーラー・ベッセ(メーラー・ベッス)
~オランダ・ベルギー系の同族会社。シャトー・パルメの共同所有者でもある。
J.P.Mouex~ジ・ペ・ムエックス社
~ リブルヌ市のサン・テミリオンとポムロール専門会社。 詳解はこちら
Andre Quancard Andore~アンドレ・カンカール・アンドレ~ボルドー市
Schroder & Schyler~シュレーデル・エ・シュレール
~1739年創設。シャトー・キルヴァン所有。上級ワインを扱い、北欧、オランダに強い
販路を有する。
Group TAILLAN~タイヤン・グループ
~1961年シャトー・シャス・スプリーンのジヤック・メルロー創設。ジネステ社を傘下に
収め、グリュオー・ラローズ所有。東高ハウスよりシトランも買収。
Maison Sichel~メゾン・シシェル
~ボルドと南仏の瓶及び樽を扱い、英米を中心に輸出中心。シャトー・パルメの
共同所有者でもある。H.Sichel(ドイツ系)は分社。
Maison Ginestet ~メゾン・ジネステ
~1897年創設された名門中の名門。かつてはシャトー・マルゴーも所有。
1973年の大恐慌で殆どを手放し、現在はタイヤン・グループ傘下。ボルドーもの中
心。
CVBG~セ・ヴェ・ベ・ジェ、Consortium Vinicolebde Bordeaux et Gironde
~ドゥールト~Dourth社、クレスマン~Kressmann社等が創設。
ACもののみ取り扱い。シャトー・モーカイユー、シャトー・ラトゥール・マルティヤック
が傘下。20を超えるシャトーの専売契約も。
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