さて、その行者を「賀茂氏」の一族であると日本霊異記が明言している訳ですが、一番初めに照会した「続日本紀」は、ただ「役君小角」としか記していません。二つの資料が編纂された時期には凡そ一世紀ちかくの時間差があるので、この間に「役君」が「賀茂役君」という姓を賜った可能性は確かにあります。その根拠の一つが「続日本紀」にある次の一文です。

  従六位上賀茂役首石穂並びに正六位下千羽三千石など百六十名に賀茂役君姓を賜った。           養老三年(719)七月十三日条

解説するまでもありませんが、それまで「首(おびと)」姓であった「石穂」という人を筆頭に、百六十名もの人々が「賀茂役君」という「姓」を朝廷から与えられたという記事です。八世紀の時点でも尚、多くの人たちが神社・祭祀などに関わる「公役」に従事していたことが分かりますが、ここに名前が記された石穂が大和葛城を本貫とした一族の代表であったのかは詳らかではないので、筆者はむしろ古代氏族難波田使首の系図に名を遺した人物こそ行者の祖先ではないかと想像しているのです。これまで当オノコロ・シリーズでは、この氏族について何度か天津彦根命や葛城氏に関連した頁でも触れてきましたが、その系図は国立国会図書館が収蔵している『諸系譜』に含まれている書き物で、凡そ次のような家系を伝えたものです。

  高魂命--伊久魂命--天押立命(又名、神櫛玉命)--陶津耳命--玉依彦命--剱根命--夜麻都俾命--久多美命--加豆良支根命--垂見宿禰
  --伊牟久足尼--宮戸彦宿禰(景行御宇)

神様たちの系譜に詳しくない方にとっては余り馴染みのない漢字の列がずらりと並んでいますが、これは「スサノオ・五十猛神」を氏族の源とする、所謂「天孫」系に属する或る一族が伝えたもので、系図に登場している「天押立命」が当サイトの主人公の一人(一柱)でもある天津彦根命と同神であり「陶津耳命」が八咫烏の異名を持つ鴨健角身命(亦の名が少彦名命)に相当する神様です。そして、その孫の代に名を連ねている「剱根命」が葛城国造として知られる人物であって、その子孫が連綿天孫の血脈を伝えたとされているのです(註:孝元帝~武内宿禰を祖先と称する葛城氏とは系統が異なる。但し、剱根[つるぎね]の後裔に当る荒田彦足尼の娘・葛比売が武内宿禰に嫁いでいる)。そして、上で引用した景行帝の頃の当主として上げられている「宮戸彦宿禰」の兄弟に「長島」という人物の存在が記されており、彼が「役直(えんのあたい)祖」であるとの注が書き込まれています(上中央の画像参照)。若し、この伝承が正しい内容のものであるとするなら、正に葛城の地で古くから繁栄していた天孫の少彦名命一族の後裔に役行者が出たことになるでしょう。また、鴨縣主の系譜を見ると、

  賀茂建角身命(少彦名命)--玉依彦--五十手美命(生玉兄彦命)--麻都躬乃命--弥加伊支命--津久足尼命--鴨部刀支命

と続く家系に見える「鴨部刀支命」の妹である鴨部美良姫命が三輪系統の飯肩巣命に嫁いで有名な大田田根子を産んだとされていますから、ここからも「鴨、賀茂(カモ)」との深い繋がりが見て取れます。当サイトでは「鴨(カモ)」は「神(カミ)」や「剣(ケン)」に転訛し人々の意識の中に取り込まれたのではないか、という仮説も紹介してきましたが、その神々たちの威光も大王の権威が喧伝されるのに反比例して次第に輝きを失ったようです。

ここまでの記事は、検索引用させていただきました。

合掌

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